●ローマの特質は「自由と寛容さ」にあり
ローマ人が共和政国家として強国、そして大きな覇権を築いていく過程の話を続けます。彼らには非常に質実剛健な面があり、父祖の威風を守るなど、堅苦しい感じを受けなくもないのは確かです。しかし一方で、ローマ人は非常に「自由を重んじる」ことを大切にしました。このことは、後にローマ帝国を確立し、長期間にわたって広大な地域を支配できたことにも相通じるかもしれません。
自由というと、得てして自分の自由を重んじて、他に対しては寛容でないといったことになりがちですが、やはり自らの自由を重んじる以上は、他者に対してもある種の寛容が求められます。ローマ人は、そのような「自由と寛容さ」の特徴を極めて強く持っていた民族ではなかったかと思います。
ローマでそうした「自由」が最初に出てくるのは、共和政が始まる紀元前509年のことです。初代王ロムルスに始まって7代にわたる王政期が続きましたが、その末期ローマは繰り返しエトルリア勢力の侵攻がありました。当時の先進地域だったエトルリア出身の人々は事あるごとにローマに入り込み、中枢でのし上がる人物も出てきました。つまり、ローマは他民族に支配されるという苦い経験をしたのですが、中にはいい王ばかりでなく、特に最後の王の一族は大変暴虐でした。そのため、ローマ人は立ち上がり、彼らを追放したのです。以下は、それを象徴するルクレティアの話です。
●「高潔なるルクレティアの悲劇」とは
ルクレティアの夫は、エトルリア人の王の息子が率いる軍隊に所属していました。ある時、戦地で妻の自慢比べが始まり、男たちは口々にいかに自分の妻が素晴らしいかを競いました。素晴らしいとは外見の麗しさだけでなく、尽くしてくれる美徳や品行方正な貞淑さにも及びます。ひとしきりそんな話が続いた後、「では、急いで帰って、妻たちがどんな振る舞いをしているか見てみよう」ということになりました。
戻ってみると、ほとんどの妻が勝手気ままに羽目を外している中、ルクレティア一人が夫の帰りを待ち望んで家事万端を整え、質素でしとやかな生活を送っていました。
これを見て、エトルリア人の王の息子が、ルクレティアの夫に対して非常な嫉妬心を燃やします。彼は夫の留守を見計らってルクレティアの元を訪れて強引に泊まり込み、夜間になると寝室に忍び込み、強引に襲います。もちろんルクレティアは、現在の言葉ではレイプに当たる行為を激しく拒むのですが、次のように脅されてしまいます。
「拒み通すなら、自分の奴隷をこの場に連れてきて殺し、あなたも殺す。そうすれば、見る人は皆、奴隷とルクレティアが刺し違えたと思うだろう。そうでなくても、二人が姦通関係にあったという噂は広まるにちがいない」
仕方なくその男に身を任せたルクレティアは後日、夫と自分の父、そして父親の友人であったブルトゥスを呼んで、暴行の一部始終を訴えます。話し終わった彼女は、ナイフで自分の胸を突いて死んでしまいます。もちろん夫も父も「お前には罪はない。やめろ」と懸命に止めに入るのですが、短剣はすでにルクレティアの心臓を貫いていました。
●複数統治による「自分の自由を自分で守る」国のかたち
ルクレティアは、一身を賭して自分の高潔を証明しました。この事件をきっかけに、もともとローマ人の間に強かったエトルリアの王家に対する反感に火がつきます。この場に居合わせたブルトゥスは、カエサルに「Et tu Brute」と言われたブルトゥスの500年前の先祖です。彼が主導権を握って、エトルリアの王家に対する反乱を起こし、彼らを追放してローマ人自身が主導権を持つ国家をつくろうとする動きに至るわけです。
このとき、「国王のような独裁権力を置くと、ろくでもない勝手な王が出たときに何をしでかすか分からない。これからはコンスル(執政官)として、市民の代表者を二人配置しよう」と、ローマ人たちは取り決めました。これによる複数統治の形が500年間、連綿と続いていったのです。
独裁者を戴かないということは、国民一人一人が「自分たちの自由は、自分たちで守る」と決めたということです。より単刀直入にいえば、元老院貴族を中心とした国民の自由を守るということになります。独裁者がいるということは、国民なり貴族なりがそれに対する隷属者になるという意味ですから、自分たちを奴隷に等しい境遇に送るような独裁者は置かないことに決めたのです。ローマはそういう意識の非常に強い国家です。
●「レスプブリカ(公のもの)」という国の形
先のルクレティアの話に象徴されるように、ローマは独裁者一族を追放して自由を勝ち取りました。だから、「われわれは決して独裁権力には服さない」という伝統が、ここから500年にわたり連綿と続けられます。これがロ...