●政治記者は政治家や官僚から話を聞くだけではない
皆さん、こんにちは。朝日新聞の星浩でございます。私は30年ほど政治記者をしておりますので、今日は「政治記者の考える政策課題」という少々真面目な話をします。
皆さんは、政治記者の夜討ち朝駆けの逸話、国会で政治家に張り付いて歩いている場面、あるいは政治家のところへ取材に押し掛けている姿などをテレビでご覧になったり、耳にしたりしていると思います。ですから、政治記者の仕事とは何かといわれたら、そのようにして政治家や官僚からいろいろな話を聞き出すことを思い浮かべると思いますが、それは半分当たっていて、半分は当たっていません。
私の経験から言うと、20年くらい前までは、政治記者は政界の有力者や官僚のトップなどから話を聞いて、それをそのまま記事にして世の中に伝えればよかったのですが、今はそうではないのです。
●米ソ冷戦構造と55年体制という安定の終わり
1945年に戦争が終わってから30年くらいは世の中が非常に安定をしていて、国際社会ではアメリカとソ連の米ソ冷戦構造、東西対決構造があり、日本国内では右肩上がりの経済成長の中で、増えていく税金や資産を分配しさえすればよいという時代が長らく続いてきました。
そのような米ソ冷戦構造の国内版がいわゆる「55年体制」で、資本主義陣営の日本では自民党が圧倒的な優位を占めていました。社会党という野党があり、彼らは「労働組合の賃金を上げるべきだ」「もっと環境に配慮すべきだ」「さらに社会保障を充実させるべきだ」といった要求はしていたものの、本気で政権をとるつもりはありませんでした。どんどん税金が増えていましたから、ただそれを分配すればよいという比較的運営の楽な政治・経済・財政状況のもと、基本的には自民党が社会党の要求をときどき受け入れながら政権を担当する体制が維持されました。また外交面でも、米ソ冷戦の間はアメリカについて行きさえいれば事足りていたという時代が続いていました。
しかし、そういう時代が終わりを告げ、経済が伸びなくなった。それから、典型的なのは、1980年代末から1990年代にかけて東西冷戦構造が一気に崩れました。ソ連・ロシアの勢力が弱まり、一時はアメリカの世界一極支配体制になりましたが、それもそれほど長くは続かず、現在の世界はモノもお金もグローバル化が進んでいます。
●「アイ・シンク・ジャーナリズム」への転換が必要
そのような変化の中で、日本の経済は伸び悩んできました。そのため、税金や資産をどのように分配していくか、難しい決定を迫られるようになってきました。この経済状況や政治状況の変化に合わせ、政治記者も以前のように有力者から話を聞いてただ伝えるだけではなく、これまでの官僚や政治家が解決できなかった諸問題を分析し、紹介しなくてはならない時代になってきています。
私は、「55年体制」時代の政治記者の仕事を「ヒー・セッド・ジャーナリズム」と言っています。つまり「有力者の言葉をそのまま伝える仕事」という意味です。それに対して、現在の政治記者の仕事は、こちらも私の造語ですが、「アイ・シンク・ジャーナリズム」と呼んでいます。この言葉は、「記者自身の考えや世の中の問題点に対する分析を伝えるジャーナリズムが必要になった」ということを示しています。政治記者は、「ヒー・セッド・ジャーナリズム」から「アイ・シンク・ジャーナリズム」への転換が求められるようになったのです。
●消費税を初めて提案した総理大臣、大平正芳氏
「アイ・シンク・ジャーナリズム」への転換が求められている典型が財政問題です。以前は税金が増えるに従って分配も増やしてきたわけですが、税金が増えなくなっても福祉や教育の水準は落とせませんから分配は簡単に減らせず、支出だけが高いレベルで維持され続けています。そのため、収入と支出のギャップが原因で借金が増え、早くも1970年代末には日本は赤字国債を発行するまでに至ります。
これはまずいと警鐘を鳴らした最初の人が、大平正芳さんという政治家です。大平さんは、「今後はさらに歳出が増え歳入が減っていくから、財政赤字が増え始めるだろう」と訴えました。今はまだ少しの赤字国債を発行するにとどまっているが、いずれはそれがどんどん膨らむに違いない。財政赤字の拡大を防ぐためには安定財源が必要だと考え、大平さんは総理大臣になった際、大型間接税の一つである一般消費税を提案したのです。
野党や世論だけでなく自民党内からも強い反発を受け、大平さんは結局、一般消費税の提案を引っ込める形になりました。しかし、それでも世論は収まらず、1979年の衆院選で負けて自民党が過半数を割り込む結果となり、さらに自民党内でも抗争・対立が激しくな...