●ローマ・カトリックの東方拡大政策とギリシア・カトリック
もう一度ギリシア・カトリックの話に戻りましょう。ギリシア・カトリックは、ローマ・カトリックと対等の扱いを求め、東方式の典礼儀式のやり方を維持することも求めました。そして、かつてのビザンツ帝国時代に、キエフを中心として持っていた伝統的な権力や権力の持ち方自体を認めるように条件も付けました。
ポーランドの当時の王国はこれらの要求を認めましたが、国内には反対も多くありました。誰が反対したかというと、意外なことにポーランドのごく普通のカトリック教徒の市民たちからの反対が多数でした。
なぜかと言うと、そもそもポーランドという国の存在意義は、西ヨーロッパから東に向けたキリスト教の拡大にあったからです。もっと正確に言えば、ローマ・カトリック教会による東方拡大の最前線、その最初に立つ人として、彼らは自分たちの使命感を持っていたのです。
●ギリシア・カトリックは、ポーランドの使命を砕いた?
ところが、東方へ進んで出会ったのは、「いや、自分たちは、カトリックとしてローマ教皇の権威は認めます。ローマ・カトリックに戻ります」という言葉でした。ただ、「儀式や典礼だけは従来通り自分たちのやり方を認めてください」と言うウクライナ正教やロシア正教の正教会の人々だったのです。
ポーランドのカトリックとしては妙な気分だったでしょう。「東へのカトリック拡大」という自分たちの存在意義を踏みにじるものと映ったのだろうと思います。これらのポーランド人たちが、西ウクライナからガリツィアに住むギリシア・カトリックのウクライナ人たちの前に、まず立ちはだかることになります。
●コザックと対立、さらに国内にも行き場を失う
もう一つは、コザックです。日本ではしばしば「コサック」と呼ばれます。この人たちは、ロシア正教を中心とした正教会の熱烈な支持者でした。彼らから見たギリシア・カトリックは、正教会の儀式を持ちながらカトリックに転向する裏切り者ということになります。ギリシア・カトリックは、カトリックと連合・合同するに至ったという意味で「ユニエイト(ウニエート)」と名乗りますが、非常にうろんなもの、うさんくさいものとして、コザックから敵視されるのです。
このようにしてギリシア・カトリックは、ポーランドのカトリック教徒とも、正教会のコザックとも対立することになります。さらに彼らは、現在ウクライナと呼ばれている地域の中で、既存勢力であったウクライナ正教会やロシア正教会とも対立して、非常に複雑な立場となるのです。
そこで、この人々は常に西側諸国を頼ろうとします。最初に庇護を求めようとしたのは、ハプスブルク朝のオーストリア帝国でした。
●ガリツィアに大司教座復活、ウクライナ人統一の民族宗教に
18世紀後半の1772年、ガリツィアという西ウクライナの地域は、第1次ポーランド分割によってオーストリア帝国に併合されます。オーストリア帝国はカトリック国家でしたから、彼らに寛大です。オーストリア皇帝は、かつてのポーランド国王同様、彼らに庇護を与え、ガリツィアの中心地であるリヴィウ(リヴォフ)を中心に、独自の教会を持つことを許します。
ガリツィアに大司教座が置かれるという形で、ギリシア・カトリックは自らの存在と権利を持つことに成功しました。さらにオーストリア皇帝は寛大にも、ローマ・カトリックとギリシア・カトリックは平等であると宣言します。
このような経緯を経て、西ウクライナの一部であるガリツィアにおいては、ギリシア・カトリック信仰が郷土をまとめ上げる民族宗教となっていきます。また、この土地を基盤として、ギリシア・カトリックこそはロシアのくびきとポーランドの圧迫から自由になるための民族宗教である、という主張を展開していくのです。
●ロシア革命、ウクライナ正教の復活と民族的覚醒の動き
ところが、話はここで「めでたし、めでたし」とはいきません。1917年にロシア革命が起きるからです。このロシア革命によって、とりあえずウクライナという国家ができます。国家ができると、ロシア正教に圧迫されていた正教会の一つ、ウクライナ正教が復活を遂げます。たちまち、誰がウクライナの民族や国民を代表する宗教なのかという論争が始まりました。
明らかにロシア正教ではない。しかし、ローマ・カトリックという外の権威を認めたユニエイトは、ロシア正教会からもカトリックからもややうろんで、ややうさんくさく見える。だから、ギリシア・カトリックでもないだろう。そこで復活したウクライナ正教こそが、民族的覚醒の担い手であるということになるのです。
政治的には誰がウクライナを担うのか。ウクライナは、今私たちが見るのと同様、中央...