●卑弥呼の「親魏倭王任命」は事実という根拠
陳寿が書いた倭人伝は、どのようにフィクションと事実が入り混じっているのか。そのお話をしたいと思います。
倭人伝は基本的に3つの大きな部分から成っています。一番最後に書いてあることが一番重要なのですが、そこに「卑弥呼を親魏倭王に任名する」という皇帝の命令書のことが書かれています。ここは変えられません。この詔の部分を改ざんするというのは歴史家としてやってはいけないことですし、事実、中国ではほとんどそういうことはありません。
なぜそれが分かるのかというと、例えば、『漢書』に収録されている詔と同じものが、敦煌の発掘物の中から出てきているのですが、ほとんど一字一句違わないものなのです。それほどの正確性を持っています。ですから、『魏志倭人伝』の一番最後に出てくる「親魏倭王に卑弥呼を任命する」という文章に、ほとんどフィクションはありません。
●典拠のあるフィクション・記録に基づく事実
そこにはどういう国に与えたのかという説明が出てきますが、そのことについてはフィクションと事実が入り混じっています。なぜ入り混じっていることが分かるのかというと、中国の歴史書は空想で書かれることはありません。つまり、何か理念を書いていくときには典拠があるのです。具体的には南方の地理に関わりますから、『漢書地理志』、あるいは儒教経典の中の『尚書禹貢(しょうしょうこう)篇』などをもとにしながら自分の考え方を書いていきます。したがって、典拠のある部分に関しては比較的フィクションの部分が多いのです。
それに対して、記録、報告書に基づくもの、例えば「持衰(じさい)」などという言葉が出てきます。これは航海の無事な往来を祈って、ずっと女性にも触らず汚い格好のままでいるということですが、中国の全ての典籍を当たっても、倭人伝を典拠とする文書以外には出てこないのです。つまり、これは明確に何らかのソースがあった、記録書に基づく事実の部分であるということが分かります。そうやって、フィクションと事実を分けていくことができます。
●倭国の距離、方角に関する記述はほぼフィクション
そして、最初のところに邪馬台国の問題で一番よく出てくる、「どのくらいの距離で南に行って」という記述があるのですが、ここもある程度当てにならないものだと考えています。どういうことかというと、帯方郡から邪馬台国に至る方位、それから距離を考えると、現在の日本の地名となかなか当てはまらないということで、いわゆる「魏志倭人伝論争」が起こっているわけですが、場所は決まっているのです。
つまり、本来邪馬台国は帯方郡のはるか東南にたどり着かなければいけないわけですが、陳寿の理念としてはもう少し下(南)にたどり着かなければいけないということになり、どうしても方向としては南にずれてきます。さらに、距離としても延びてしまうのです。そのようなことなので、単位や距離、あるいは南を東に直すといった小手先のことをしてもほとんど意味がないと私は考えており、距離や道程についてはほとんどフィクションだと思っています。
中でも、『魏略』に書かれていなかった不弥国(ふみこく)から邪馬台国までのところに、「水行二十日間」と書いてあるのですが、おそらく『史記』の「水行十日・陸行一月」という表現に基づくものであろうということが、四書を読んでいる者としては感じられます。
●倭国が洛陽の東南にあることを示す入れ墨の記述
もう少し具体的な話に入っていきます。例えば、「(倭人の)男子は大人と子供の別なく、みな顔と身体に入れ墨をしている」、このようなことが書かれています。あるいは次のような文章があるのです。
「倭の使者は中国に至ると、みな自ら大夫と称する。夏(か)の少康の庶子は、会稽に封建されると、髪を切り身体に入れ墨をして(龍の子に似せ)、それにより蛟龍(こうりゅう)の害をさけた。倭の水人(あま)は、水中にもぐって魚や蛤を捕えることを得意とする。入れ墨をすることはもともと大魚や水鳥を抑えようとしたためであった。後にようやくそれを飾りとした。諸国の入れ墨はそれぞれ異なり、あるいは左にあるいは右に、あるいは大きくあるいは小さく、(身分の)尊卑により差があった。(帯方郡からの)その道程の里数を計算すると、(倭国の都にある邪馬台国は)会稽群の東冶県の東方にあるのだろう」
入れ墨の記録のところはばらばらに読まれる方も多いのですが、最後のところまでがセットになっています。この記録は何を言いたいのかというと、会稽群(呉の東側にある南北に長い県)の東冶の東方にあるといっている、つまり、当時中国の真ん中は洛陽ですから、その洛陽から見て東南にあることを示したいわけです。洛陽の東南にある...