●ロシアの地政学的な被害者意識
さて、ここまで述べてきたことを踏まえて、そうした事実をどう判断するか、皆さんと一緒に考えましょう。
西側諸国はその事実を踏まえて、「ロシアは民主主義を否定している。人権を否定している」と捉えているのですが、それはクリミアの問題でも分かるように国際法違反、つまり力による一方的な現状変更が1928年のパリ不戦条約への明確な違反だからです。したがって、西側諸国は、ロシアに対して経済制裁を当然するべきであるとして、実際に執行しています。
ところが、ロシアは全く逆の判断です。西側諸国の方がロシアの周辺に介入をしてきて、それがひそかに浸透してきて、しかもロシアを侵食してくるということで、それに対する警戒感、恐怖感があるのです。そもそもNATOの軍事包囲網がロシアを取り囲んでいるので、それによってロシアは非常に脅かされています。つまり、ロシア独特の価値観、国家主義、一体感が侵食されており、それによって政権基盤が弱体化するというのです。
実はロシアはこの地政学的な被害者意識をずっと持っているのです。地政学とは地理に関連しますが、ロシア周辺の地理を見るとすぐ分かります。ロシアの国境周辺には、高い山脈がないのです。コーカサスの方に行くとありますが、ロシア国境周辺にはありません。ですから、大軍がロシアに攻めようとすると、実はすぐできてしまうのです。
歴史的にそれがありました。ナポレオンがそうです。たちどころにモスクワに迫りました。冬将軍が来なければ、ロシアはモスクワを奪われていたでしょう。ナチドイツ(ナチスドイツ)も迫りましたが、同じ冬将軍で解体しました。なんと日本がシベリアに進駐したこともあります。ですから、そのような恐怖感があるというのです。そのために14もの国を周辺にクッション地帯として置いて、そこが影響を受けると侵害、侵食しているというわけです。このことが分からないと、おそらく私たちはロシアのことが分からないと思います。そこのところを皆さんと一緒に考えたいと思います。
●北方領土問題の歴史的背景
最後に、日本とロシアは独特な北方領土問題を抱えているので、このことについて少し言及したいと思います。
第二次世界大戦後、当時のソ連はサンフランシスコ平和条約に調印しなかったのです。日本とソ連は2国間で別途、平和条約締結を目指すということで、1955年に交渉が開始されました。しかし、領土問題は決着がつきません。翌年1956年10月にモスクワで、領土問題が片付かないから平和条約が締結できないので、日ソ共同宣言に調印しました。
共同宣言には、平和条約が締結された後に歯舞群島と色丹島を引き渡すということが書かれています。これは日本からは鳩山一郎首相、ソ連からはニコライ・ブルガーニン首相が出席しています。それから次の大きな動きは何十年か後になりますが、1993年10月にボリス・エリツィン首相が来日して細川護煕首相との間で東京宣言に調印をしました。東京宣言は、「両国は過去の遺産は克服すべきだ。北方四島の帰属について真剣に交渉しよう。この問題を解決することによって平和条約を早期に締結するよう交渉継続する」という内容です。この宣言後、両国の空気は急速に改善しました。
その地盤の上で、今度は1998年4月に橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が会談を行いました。これで領土問題は実は解決寸前まで近づいたといわれています。そこでは橋本首相が、日露間で締結する平和条約で領土問題を別途合意するまで、ロシアが四島の施政権を行使することを日本は認めると提案しました。つまり、平和条約を締結するまではロシアが管理を続けてもいいということです。ということは、平和条約の締結が前提になっており、締結すれば領土を返すということです。これについて、エリツィン大統領は面白いと何度も言ったそうです。ところが、同行した報道官が「ちょっと待ってください。国に持ち帰って検討した方がいい」と言ったので、そこでは合意はしませんでした。
合意せず帰ったら、エリツィン大統領が病気で倒れてしまったのです。橋本氏は参議院選挙で大敗をしたということで、首相には戻りませんでした。もしあそこで合意していたら、領土問題は大きく前進したのかもしれません。
なぜそうなった可能性があるかというと、ロシアはあの時、先ほど詳しく申し上げたように国が滅びるかというぐらいの経済的苦境にあったので、日本と仲良くしたかったということがあると思います。エリツィン氏から大統領を引き継いだウラジーミル・プーチン氏はKGBの人ですし、領土問題の関心も非常に強いのです。おそらく歴代の大統領の中で、北方領土問題について最も勉強している大統領ではないかといわれています。
プーチン氏は、「ロシアは交渉...