●就活生の前で「非常識」な大見栄を切る
今回は、舛岡富士雄さんが貫いた「非常識」についてお話ししたいと思います。
まず、フラッシュメモリ開発の歩みを、もう一度おさらいします。舛岡さんの開発チームは、1980年にフラッシュメモリの基本特許を出願しました。84年には、最初のフラッシュメモリである並列のNOR型フラッシュメモリを発表します。まだ、舛岡さんが事業部に勤めていた時代でした。87年には、NAND型の直列フラッシュメモリの特許を出願します。これは、総合研究所時代へ舞い戻った時でした。そして90年に、NAND型の試作品デバイスが完成します。こうした流れで開発が進んでいきました。
元部下の作井康司さんによると、ようやく試作品ができた頃、就職活動で東芝を訪ねてきた大学生に、舛岡さんは次のような話をしていたそうです。
「君ら、ジョギングしながら音楽を聞きたいか? 今、開発しているNAND型フラッシュメモリを使えば、耳掛けイヤホンタイプで音楽が聴けるようになる」
当時の携帯用テープレコーダーやCDプレーヤーは、走りながら聞くと音飛びしたり、サイズも大きいものばかりでした。しかし、舛岡さんは、携帯デジタル音楽プレーヤーが存在しない時代にその登場について語っていたのです。「こういう時代が来るぞ」と夢を語り、就活生をこの世界へ引き込もうとしていたのです。
しかし、この時のNAND型フラッシュメモリの試作品は、容量が4メガほどで、音楽でいえば1曲入るかどうかという状態でした。
ところが、舛岡さんの大言壮語はそこで終わりません。さらに、すごい話を就活生にしていたのです。それは、「NAND型フラッシュメモリが将来、ハードディスクと置き換わる!」というものでした。
この発言がいかに「非常識」か、ピンとこない人もいると思うので後ほど解説しますが、それを横で聞いた作井さんは、「あ~、言っちゃった。ジョギングしながら音楽を聴ける話までで止めておけば良いのに、そこまで言ってしまったよ」と思ったそうです。
●「フラッシュメモリがハードディスクに取って代わる」とは?
少し当時の状況をご説明します。スライドの「メモリヒエラルキー」というのは、半導体業界で有名なグラフです。縦軸はデータをやりとりする際の速度やコストを、横軸はデータの容量を表しています。グラフの上部、ピラミッドの上の方にあるのが、電源がないとデータが消えてしまう「揮発性メモリ」です。高速でデータのやりとりができるのですが、値段が高く、容量が少ないものになります。先ほど名前を挙げた「DRAM」といった半導体メモリも、これに当たります。
ピラミッドの下側の膨大な領域は「不揮発性メモリ」です。電源が切れてもデータが残る媒体で、磁気ディスク(ハードディスクなど)がそれに当たります。この部分は当時、半導体メモリの領域ではなく、完全に磁気ディスク(ハードディスクなど)の領域でした。市場規模は5兆円ほど。膨大な市場はハードディスクが占めていたのです。舛岡さんの狙いは、その市場を半導体メモリのNAND型フラッシュメモリが奪うというものでした。
●「非常識」な発想を実現するための、合理的戦略
これは、当時の感覚では「ああ、言ってしまった」と思われるくらい「非常識」な話でした。なぜなら、ハードディスクとNAND型フラッシュメモリには圧倒的なコスト差があったからです。当時、どれほどの価格差があったかについて、作井さんは次のように説明してくれました。「ハードディスクドライブの方が、1万分の1くらい安かった」。例えば、ハードディスクが1円だとしたら、当時のNAND型フラッシュメモリは1万円ほどもするのです。
つまり、舛岡さんは1円と1万円の差がある中で、「1万円のものが1円のものの領域を奪っていく」と話していたのです。
何度もキーワードとして出てきていますが、舛岡さんは当時としてはきわめて「非常識」な考えを持っていました。この下部の領域(膨大な不揮発性メモリの領域)を半導体メモリが奪うという発想を持つ人は、業界内に誰もいない時代です。しかし、その考えを実現するには、半導体メモリをとにかく安くしないと使われません。そのためには、NAND型という直列の方式しかない、と考えたのです。つまり、舛岡さんからすれば、NAND型の開発は合理的な考えから導き出された結論だったのです。
●“顧客目線”で技術を見て「コスト削減」の重要性を痛感
舛岡さんは、なぜそれほど「安さ」にこだわったのでしょうか。舛岡さんのバイオグラフィーから考えていきましょう。1971年に東芝に入社した当初、研究開発をする部署である「総合研究所」に配属されました。
しかし、転機となった...