●転機となった「サムスンとの技術提携」
『世界を変えた「フラッシュメモリ」』の最終回、第5回目をお話ししていきたいと思います。スライドには舛岡富士雄さんの写真が映っていますが、「硬骨の人」と書きました。少し意味深なテーマです。
ようやく事業化したNAND型フラッシュメモリですが、しばらくは赤字が続いていました。そのフラッシュメモリが、東芝の窮地を救っていくことになります。
1992年に、NAND型フラッシュメモリの量産化が開始します。そして、1994年に韓国のサムスン電子(サムスン)と技術提携をします。サムスンはご存じのように、今やNAND型フラッシュメモリで世界一のシェアを誇るメーカーです。サムスンとの提携について、「なぜ、技術供与をした?」とか「どうしてこんなバカなことをしたのだ」といった論調で伝えられることが多いですが、実際は事情が異なります。
東芝が独占的にフラッシュメモリ事業を続けても、お客さん側からすれば、セカンドソースがない状態なので、例えば地震などの災害や何らかのトラブルで製造が追いつかず、万が一フラッシュメモリが手に入らない状況が発生したら非常に困ります。ですから、単一のメーカーがフラッシュメモリを作っていても、その業界全体の市場は拡大しないのです。
インテルはNAND型フラッシュメモリに目を付けなかったのに対し、サムスンは非常に早い時期から、このNAND型がこれからの半導体業界をおそらく背負っていくと見越していました。そこで、東芝とは別に、極秘裏に独自でNAND型の開発を進めていたのです。
そして、サムスンは東芝に「NAND型フラッシュメモリの仕様を同じものをしませんか」と規格の統一を持ち掛けてきたのです。それは、東芝が技術を供与するというものではなく、あくまで「統一規格にして共に市場を活性化させましょう」という提案だったのです。
これは、重要なトピックです。東芝のNAND型フラッシュメモリの開発メンバーに聞いても皆、サムスンとの技術提携について「すごく大きなことで、ありがたかった」と述べています。なぜか間違って伝えられていることが多いのですが、先見の明があったサムスンによって、東芝が生んだフラッシュメモリ市場は活気づき、上昇気流に乗っていくことができたのです。
この技術提携と同じ1994年に、舛岡さんは東芝を退社しました。どうやら舛岡さんは、サムスンとの提携には反対していたようですが、その後の結果を見ると、事業的な判断としてこの提携は正しかったと思います。
●突然、飛び込んできた発明対価訴訟のニュース
1999年ころから、それまで「お荷物」と言われていたNAND型フラッシュメモリは黒字化します。そして2002年、東芝はあれだけ稼ぎ頭だったDRAM事業から撤退することになったのです。東芝だけではなく、日本の半導体メーカーは皆、安価で大量生産を行う海外のメーカーにDRAM事業で勝てなくなり、どんどん撤退していきました。
しかし、東芝はDRAMをやめる代わりに全リソースをNAND型フラッシュメモリに集中させる戦略をとり、半導体メーカーの中で生き残ってきたのです。他の日本の半導体メーカーが軒並みダメになる中、東芝はフラッシュメモリによって救われたのです。
そんな中、2004年に東芝を辞めて東北大学で教授を務めていた舛岡さんが、東芝を訴えたというニュースが飛び込んできます。ちょうど青色発光ダイオードの発明対価訴訟があった後でした。フラッシュメモリの発明対価として約10億円を古巣・東芝に請求するというニュースが大きく報じられたのです。ご存じの方もいらっしゃるかと思います。
こうした動きに対し、すでに他のメーカーに転職していたNAND開発メンバーの有留誠一さんは、「舛岡さん、どうしちゃったの。なんで訴えちゃったのよ」と思ったそうです。当時、一緒に開発していた人でさえも驚き、動揺したのです。同じく開発メンバーの一人だった百冨正樹さんは、「やっぱり裁判沙汰はやめてほしかった。舛岡さんには何のメリットもない」と語っていました。
●訴訟の目的は金銭ではなく、技術者への正当な評価だった
舛岡さんは、「あの裁判をやったことで、すごくイメージがダウンしたと感じています。でも、僕はやって良かったと思っています」と話しています。
発明対価訴訟は弁護費用も高額で、持ち出しになることもあると言います。また、社会的な評判も落としかねません。裁判では、原告側・舛岡さんと被告側・百冨さんが対決するような場面もあったそうです。
お互いに複雑な感情があったそうですが、舛岡さんは当時のインタビューで、こんな話をしています。「報酬の少ない技術者を元気付けたかった。(中略)訴訟...