●NAND型フラッシュメモリの開発を部下に“丸投げ”?
今回は、「フラッシュメモリ誕生秘話」の「開発編」をお話したいと思います。
1987年4月に、事業部にいた舛岡富士雄さんは念願が叶って総合研究所に舞い戻り、課長に就任しました。異動して早々、舛岡さんは新しいフラッシュメモリとして、前回お話しした「直列」のNAND型フラッシュメモリの開発に取りかかることを部下に命じました。
まず、素直に「面白そうだ」と感じていた部下の百冨正樹さんが、NAND型(直列)フラッシュメモリの簡単な実験を行いました。その結果、問題はあったものの、一応は動作しました。舛岡さんはそれを見て「よし、動いたな。ここからどうやっていくかは、お前らが考えろ」と言ったそうです。具体的な開発はすべて部下に“丸投げ”したのです。
●国際学会では評価されず、部下もNAND開発に反発
ひとまず動作はしたので、同じ年の1987年に国際学会の「IEDM」で発表しました。この発表について、NOR型のフラッシュメモリで大成功したインテルのステファン・ライさんは、「当時、NAND型フラッシュメモリはほとんどの人がうまくいくとは思っていなかった。製品化する価値があるとも思っていなかった」と証言しました。最初のフラッシュメモリである並列タイプの時はいち早く開発に着手したインテルですが、NAND型については「これは無理」という判断だったのです。
また、当時の部下たちも反発していました。NAND開発チームのリーダーに命じられた白田理一郎さんは、「NAND型(直列)構造は非常に難しいため、不可能だ」と思ったそうで、当初は「やりたくない」という態度を露わにしていたそうです。
舛岡さんと白田さんの間で当時、「プランター事件」というのが起きたそうです。オフィスの至る所に緑のプランターが置かれていたのですが、白田さんは舛岡さんと顔を合わせたくないので、毎日、オフィスのプランターを集めて舛岡さんとの間に置いていたそうです。後でそれを片付けても、また翌朝にはプランターを両者の間に置き直すということを繰り返したそうです。「当時の舛岡さんと白田さんは犬猿の仲だった」と証言する方もいます。
●開発チームリーダー・白田氏も個性的な人物だった
しかし、リーダーの白田さんも非常に個性的な人物でした。私は勝手に「ゆるゆるの天才」とあだ名を付けたのですが、白田さんはもともと名古屋大学の大学院で理論物理学を専攻した非常に優秀な人です。ただ、サラリーマンとして見ると、いろいろと失敗をしたりだらしない所も多くて、人物評価や考課表の評価でいうとEかFで、ほぼ会社にいられては困るというような評価を受けていたそうです。
しかし、舛岡さんはそんな白田さんをなぜかNAND型フラッシュメモリ開発のリーダーに任命しました。能力を高く買っていたと思うのですが、白田さんはリーダーらしくないリーダーだったと言います。
当時のNAND開発会議の様子について、白田さんは「とにかく意見がまとまらなかった」「みんな好き勝手なことを言っていた」と語っています。でも、それは、リーダーであるご自身が「ゆるゆる」だったからなんですね。ただ、白田さんという人は、皆を励ましはしても、「それは駄目だ」と頭ごなしに否定したりしない人でした。「メンバーのやる気をなくさせない」ということを心がけていたのです。
リーダーがこういう人で、他のメンバーが意見を言いやすかったので、開発については皆が自由なアイデアを言いやすいムードがありました。白田さんは、後輩や部下から非常に慕われていたという話もあります。舛岡さんが「これをやれ!」と命じる強い指導者だとすると、若手が自由に意見を言いながら開発を進めやすいムードを作っていたのは、リーダーの白田さんでした。
●「まとめ役」と「サンドバック役」を担った二人のサブリーダー
ただ、開発チームには、ちゃんとチームをまとめる役割の人も必要です。それが百冨正樹さんという方でした。私は彼に、「影のリーダー」というあだ名を付けました。大学時代は、九州大学で体育会系のラグビー部に所属していた人です。エンジニアになられるような方なのに、本気でラグビーにも取り組んでいた人で、「皆で一つの目標に向かって行こうぜ」というような雰囲気を持つ人でした。ある人は、百冨さんを「太陽に向かって走ろう、みたいなタイプの人」と評していました。サブリーダーとして、このような“まとめ役”となる人がいたので、チームはバラバラになりませんでした。
さらにもう一人、サブリーダーがいました。作井康司さんという方です。この人は舛岡さんの世話係で、私は「...