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世界を変えた「フラッシュメモリ」
成功の裏にあった常識破りの開発方針と自由な意見交換
世界を変えた「フラッシュメモリ」(3)誕生秘話・開発編
経営ビジネス
佐々木健一(NHKエデュケーショナル シニアプロデューサー(TVディレクター/ノンフィクション作家))
NAND型フラッシュメモリの開発は、個性的なメンバーで構成される開発チームによって進められた。その内実を見ると、成功の裏には、常識破りともいえる開発方針の推進と自由で活発な意見交換、そしてそれを巧みにマネジメントするリーダーの姿があった。(全5話中第3話)
時間:16分19秒
収録日:2018年10月19日
追加日:2019年1月8日
収録日:2018年10月19日
追加日:2019年1月8日
≪全文≫
●NAND型フラッシュメモリの開発を部下に“丸投げ”?
今回は、「フラッシュメモリ誕生秘話」の「開発編」をお話したいと思います。
1987年4月に、事業部にいた舛岡富士雄さんは念願が叶って総合研究所に舞い戻り、課長に就任しました。異動して早々、舛岡さんは新しいフラッシュメモリとして、前回お話しした「直列」のNAND型フラッシュメモリの開発に取りかかることを部下に命じました。
まず、素直に「面白そうだ」と感じていた部下の百冨正樹さんが、NAND型(直列)フラッシュメモリの簡単な実験を行いました。その結果、問題はあったものの、一応は動作しました。舛岡さんはそれを見て「よし、動いたな。ここからどうやっていくかは、お前らが考えろ」と言ったそうです。具体的な開発はすべて部下に“丸投げ”したのです。
●国際学会では評価されず、部下もNAND開発に反発
ひとまず動作はしたので、同じ年の1987年に国際学会の「IEDM」で発表しました。この発表について、NOR型のフラッシュメモリで大成功したインテルのステファン・ライさんは、「当時、NAND型フラッシュメモリはほとんどの人がうまくいくとは思っていなかった。製品化する価値があるとも思っていなかった」と証言しました。最初のフラッシュメモリである並列タイプの時はいち早く開発に着手したインテルですが、NAND型については「これは無理」という判断だったのです。
また、当時の部下たちも反発していました。NAND開発チームのリーダーに命じられた白田理一郎さんは、「NAND型(直列)構造は非常に難しいため、不可能だ」と思ったそうで、当初は「やりたくない」という態度を露わにしていたそうです。
舛岡さんと白田さんの間で当時、「プランター事件」というのが起きたそうです。オフィスの至る所に緑のプランターが置かれていたのですが、白田さんは舛岡さんと顔を合わせたくないので、毎日、オフィスのプランターを集めて舛岡さんとの間に置いていたそうです。後でそれを片付けても、また翌朝にはプランターを両者の間に置き直すということを繰り返したそうです。「当時の舛岡さんと白田さんは犬猿の仲だった」と証言する方もいます。
●NAND型フラッシュメモリの開発を部下に“丸投げ”?
今回は、「フラッシュメモリ誕生秘話」の「開発編」をお話したいと思います。
1987年4月に、事業部にいた舛岡富士雄さんは念願が叶って総合研究所に舞い戻り、課長に就任しました。異動して早々、舛岡さんは新しいフラッシュメモリとして、前回お話しした「直列」のNAND型フラッシュメモリの開発に取りかかることを部下に命じました。
まず、素直に「面白そうだ」と感じていた部下の百冨正樹さんが、NAND型(直列)フラッシュメモリの簡単な実験を行いました。その結果、問題はあったものの、一応は動作しました。舛岡さんはそれを見て「よし、動いたな。ここからどうやっていくかは、お前らが考えろ」と言ったそうです。具体的な開発はすべて部下に“丸投げ”したのです。
●国際学会では評価されず、部下もNAND開発に反発
ひとまず動作はしたので、同じ年の1987年に国際学会の「IEDM」で発表しました。この発表について、NOR型のフラッシュメモリで大成功したインテルのステファン・ライさんは、「当時、NAND型フラッシュメモリはほとんどの人がうまくいくとは思っていなかった。製品化する価値があるとも思っていなかった」と証言しました。最初のフラッシュメモリである並列タイプの時はいち早く開発に着手したインテルですが、NAND型については「これは無理」という判断だったのです。
また、当時の部下たちも反発していました。NAND開発チームのリーダーに命じられた白田理一郎さんは、「NAND型(直列)構造は非常に難しいため、不可能だ」と思ったそうで、当初は「やりたくない」という態度を露わにしていたそうです。
舛岡さんと白田さんの間で当時、「プランター事件」というのが起きたそうです。オフィスの至る所に緑のプランターが置かれていたのですが、白田さんは舛岡さんと顔を合わせたくないので、毎日、オフィスのプランターを集めて舛岡さんとの間に置いていたそうです。後でそれを片付けても、また翌朝にはプランターを両者の間に置き直すということを繰り返したそうです。「当時の舛岡さんと白田さんは犬猿の仲だった」と証言する方もいます。