●方法的懐疑の手綱を緩めて、物体について考える
もう一度要点を言います。「我思う、ゆえに我在り」というのは、いろいろ疑ってみて、その疑っている限りの私は、やっぱり存在しているのだということです。ここで少し、疑うということの手綱を緩めてみます。
今は頑張って、疑っている。外的世界はないのだと、外的感覚を疑う。また自分の内的感覚も疑う。そのことで、自分の身体も完全に抹消してしまう。欺く神という、とてつもないものを想像してみて、私が知性を働かせているその瞬間にも、私が間違えるように神によって仕向けられている、という破格な想定をしてみる。そうして、懐疑の手綱を強く引き寄せているわけです。
この手綱を少し緩めてみます。今は存在しないと仮定している、この世界にある物体のことを考えてみようということです。例えば、本であったり、服であったり、眼鏡であったり。
●物体の本当の姿はこの空間に何らかの形をとって広がること
ただ、デカルトがそこで出してくる物体の例は少し風変わりです。あまり私たちの日常世界に出てきません。それは蜜蝋です。ろうそくと言えば分かるでしょうか。でも蜂蜜でできているろうそくです。
皆さんのご家庭で、ろうそくで毎日ご飯を召し上がるという方は、そんなにいらっしゃらないでしょう。少し雰囲気を出したいときなどにろうそくをお使いになるご家庭はあるかもしれませんが、ろうそくが日常の必需品だという方はそう多くはいらっしゃらないと思います。だから、ろうそくはおろか蜜蝋と言われると、一体何かと思われる方はいらっしゃるかもしれませんが、蜂蜜で作ったろうそくのことです。
これを火に近づけてみます。火に近づけると想像してください。どうなるか。形が変わります。溶けます。溶けるだけではありません。色が変わります。匂いも変わり、最終的にはなくなります。「だけれども」とデカルトは言います。その感覚によって捉えられた限りの蜜蝋は、ぐにゃぐにゃになったり、匂いがしてきたり、焦げたりと変化するけれども、私の精神はそこに蜜蝋があるということを、ずっと捉えているではないか。そこからデカルトは、蜜蝋に代表されるようなこの現実の世界に存在しているあらゆる物体の本当の姿というものは、感覚によって捉えられた色であるとか、匂いであるとか、形であるとか、テクスチャー(肌触り)であるとか、そういったものではなく、この空間に何らかの形をとって広がることだと考えました。
空間における物体には、いろいろな広がり方があります。本の広がり方もあれば、メガネにも広がりがあり、あるいは服の広がりもあります。本であれば、いろいろな本の形があって、いろいろな材質の本があるわけだけれども、いろいろな形の仕方で、空間の中に広がることができるものが物体の本当の姿だというのです。
つまり、私たちが目で捉えた、青色の背表紙、黄色の背表紙、あるいは黒い文字で書かれているとか、ちょっと滑らかな手触りや、ちょっとザラザラしているなど、そういったものは物体の本質ではないというのです。
●事象的区別による心身二元論の成立
こうしてデカルトはこの世界を成り立たせている、二つの根源的なものについて、正確な知識を手に入れることができました。
まず精神とは何か。それは考えるということを特徴とするものである。事物は何か。物体は何か。それはこの空間に何らかの広がりをもつ、あるいは何らかの仕方で広がるということを特徴としたものである。ただしその広がり方は千差万別です。私たちが日常世界で接している物体は、すでに広がった後のものです。広がる前のものではなく、広がってこの空間に、例えば本のようなこういう形をして姿をとっているものとして、私たちはすでにこれ(本)に触れているわけだけれども、その本質は空間に広がることです。
それは精神によって捉えられるとデカルトは言います。つまり、二つの物が捉えられていることになります。まず、自分自身。考えるということを特徴とする自分自身。それから空間に、或る広がり方をする、それを特徴とするような物体。この二つを捉えています。
よろしいでしょうか。ここに身体というものが入ってくる余地はありません。僕らは普通、こういう物体(本)を感覚で捉えるでしょう。目で見て、匂いを嗅いでみて、インクの匂いがするとか、すべすべするとか。本を食べるわけにはいかないので、どんな味がするか分からないのですが、おいしくはないと思います。いずれにしても、パラパラとめくれば、パラパラという音が聞こえてきて、「これが本だな」と僕たちは身体で捉えているわけです。でも実は、それは物体の捉え方としては間違っていると、デカルトは考えます。...