●貢献できる自分を誇り、先人は「わたしの友」だと思う
―― 今日はまことにありがとうございました。
五十嵐 こちらこそありがとうございます。
―― 教養という問題について哲学的に考えるとどうなるかということで、大変興味深いお話をうかがいました。三つばかり質問させていただきたいと思っております。
一つは学びの在り方です。どう学んでいくか、というところになりますが、今日のお話で特に強調されたのは「他者」ということで、いろいろな相手から影響を受けて学んでいくというところでした。
ある視聴者参加型のテレビ番組に、「20年かけて魔球を開発したので、ぜひプロ野球選手に教えたい」と言ってきた人がいた。それで実際にプロ野球選手を呼んできて、その魔球を投げてもらった。プロ野球選手自身も実際に投げて、「あ、よく曲がりましたね」と、なった。続いて選手が言ったのは「これは、カーブですね」ということで、チャンチャン、一幕の終わりでした。
大学の先生方は本当にたくさんいろんなことを学んでいらっしゃるので、そういう危険性はないと思うのですが、一般の、例えばわたしどものテンミニッツTVで学んでいるような方ですと、自分が一生懸命学んできたものが、実は「あ、これはもうベンサム(Jeremy Bentham)が言っていた話だった」とか、「これはルソーが言ったことに似ていた」とか、そういうケースは、もしかしたらあるかもしれないなと思うんですね。
では、そういう学びは無駄だったのかどうなのか。一生懸命自分で考えて、まさに今日の話で言えば自分を鍬で耕した挙句、結果的にそういうことになった場合、自分の行ったことはどうなるのか。それを避けるための学びがあり得るのか。それとも、それを恐れずに進むべきなのか。そのあたり、どのようにお考えなのかということをお聞かせいただけますでしょうか。
五十嵐 まずカーブのお話なんですけれど、ご自分で20年かけてカーブを発明したという、その20年間はどんなに楽しかっただろうと思うんですね。しかも、その人はそれを野球選手に教えたら、自分が貢献できると思ったわけですよね。それで、教えたけれども、それはもうすでに誰もが知っているカーブだったということ。でも、わたしはその人の20年間は全く無駄ではなかったと思うんです。
だって、その20年間、その人は一生懸命自分で考えて、たぶんいろん...