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「アマチュア」の語源から学びについて考える

「教養とは何か」を考えてみよう(13)【深掘り編】学びの在り方

情報・テキスト
自分が苦心して学び、気づいたことに対して、先人がとっくに答えを出していたと分かったとき、わたしたちはどう考えればいいのか。それは骨折り損の行為なのだろうか。対話講義の後に行われた質疑応答編その1。(全15話中第13話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:14:23
収録日:2020/10/26
追加日:2021/07/20
≪全文≫

●貢献できる自分を誇り、先人は「わたしの友」だと思う


―― 今日はまことにありがとうございました。

五十嵐 こちらこそありがとうございます。

―― 教養という問題について哲学的に考えるとどうなるかということで、大変興味深いお話をうかがいました。三つばかり質問させていただきたいと思っております。

 一つは学びの在り方です。どう学んでいくか、というところになりますが、今日のお話で特に強調されたのは「他者」ということで、いろいろな相手から影響を受けて学んでいくというところでした。

 ある視聴者参加型のテレビ番組に、「20年かけて魔球を開発したので、ぜひプロ野球選手に教えたい」と言ってきた人がいた。それで実際にプロ野球選手を呼んできて、その魔球を投げてもらった。プロ野球選手自身も実際に投げて、「あ、よく曲がりましたね」と、なった。続いて選手が言ったのは「これは、カーブですね」ということで、チャンチャン、一幕の終わりでした。

 大学の先生方は本当にたくさんいろんなことを学んでいらっしゃるので、そういう危険性はないと思うのですが、一般の、例えばわたしどものテンミニッツTVで学んでいるような方ですと、自分が一生懸命学んできたものが、実は「あ、これはもうベンサム(Jeremy Bentham)が言っていた話だった」とか、「これはルソーが言ったことに似ていた」とか、そういうケースは、もしかしたらあるかもしれないなと思うんですね。

 では、そういう学びは無駄だったのかどうなのか。一生懸命自分で考えて、まさに今日の話で言えば自分を鍬で耕した挙句、結果的にそういうことになった場合、自分の行ったことはどうなるのか。それを避けるための学びがあり得るのか。それとも、それを恐れずに進むべきなのか。そのあたり、どのようにお考えなのかということをお聞かせいただけますでしょうか。

五十嵐 まずカーブのお話なんですけれど、ご自分で20年かけてカーブを発明したという、その20年間はどんなに楽しかっただろうと思うんですね。しかも、その人はそれを野球選手に教えたら、自分が貢献できると思ったわけですよね。それで、教えたけれども、それはもうすでに誰もが知っているカーブだったということ。でも、わたしはその人の20年間は全く無駄ではなかったと思うんです。

 だって、その20年間、その人は一生懸命自分で考えて、たぶんいろんなことも調べた上でカーブをつくったということだと思うんです。カーブを生み出すことができたことは、素晴らしいことです。もうずっと以前にそういう別の人がいたということですけれども、同じプロセスを自分で体験することができたことは素晴らしいことですし、しかもそれによって貢献しようとしたことが素晴らしいことだな、と思う。

 シリーズのなかでマイクが、生まれてきたということを、「貢献」につながる言葉として「存在することに意味がある」と言っていました(第9話)。それは別にわたしたちが新しい何かを付け加えるということではなく、わたしたちがより良い何かをもたらそうとすること。より良い何かをもたらそうとする自分であるということが、すごく意味があることなんじゃないかとわたしは思います。

 哲学者もそうで、研究をやっていて、「シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)が同じことを言っていた」とか「ハイデガーが同じことを言っていた」というのは、よくあることです。あるいは、ハイデガーが言っていることを理解してなくて、自分があたかも発見したように思って、あとから読んでみたらもうハイデガーが言っていたということも、よくあることです。

 わたしはそういうときに、シリーズのなかでの言い方を使うと「あ、友がいたんだ」と思う(第11話)。「あ、シェリングはわたしの友だった。わたしと同じように思った人がいたんだ」と。カーブの人もそうじゃないかと思うんですね。自分の功績ではない。ただ、いろんな人がいろんなルートを通って、自分なりに考えた軌跡(その体験)を、わたしも持つことができた。そのことを、いろんな人たちに楽しんでいただきたいなと思います。


●学びの真髄は「プロセス」にあり


津崎 パスカルが『幾何学的精神について』という本のなかで、こんなことを述べているんですよね。

 「我思う。ゆえに我あり」とデカルトは言った。「非常な発見である」とみんな思うわけだけれども、実は「我思う。ゆえに我あり」はデカルトが言い出したことではなくて、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)がすでに言っていた。同時代の人はそれに薄々気づいていて、「デカルト、これ、自分の大発見だと言っているけど、実はこれアウグスティヌスの本のなかにあるんだよ」と。デカルトはそれが癪に障ったのか、「言われてみればそうでしたね」と言った...
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