●人間だけがなぜ「話」をするのか
津崎 僕は今、さっちゃんと話をしていて、当たり前といえば当たり前なんだけど、でも不思議といえば不思議なこととして、「教養」についてこんなことを話すのはたぶん、この世の中に存在している生物のなかで「人間」しかいないよね。
五十嵐 うんうん。
津崎 「人間には言語が備わっている」という意味ではなくて、「話をする生物は人間しかいない」というところに少しこだわってみたい。
実はデカルトが『方法序説』のなかで面白いことを言っていて、「わたしたちは、大人になる前にみんな子どもだった」と。「そんなの、当たり前じゃん」と思うんだけど、デカルトが言おうとしているのは何かというと、「生まれたときにこの世で最も公平に分配されたものが理性なり良識だ」というふうに、彼は『方法序説』のなかで言い始めている。
ということは、生まれつきみんな一応良識が備わっている。だけど、子どものときからの親の影響や教育の影響により、「なぜかその良識が曇らされ、判断力が鈍っている」というふうに、思考実験をするんだ。
もし、そういうことがなくて、ルソー(Jean-Jacques Rousseau)が論ずる「原始人」よろしく、生まれつきの精神の能力をきちんと使っていたら、誰も苦労しなかっただろう。でも、子どもがずっといろんなことを勉強して過ごすうちに、それが曇らされる。ようやく大人になった僕たちは、そこから「脱我」しなければならないと。
というところで、カント(Immanuel Kant)の『啓蒙とは何か』などもちょっと関わってくる。これは「幸福とは何か」のシリーズで話したから、『啓蒙とは何か』については、わたしたちの対談講義シリーズ「『幸福とは何か』を考えよう」(第4話)をご覧ください。
五十嵐 分かりやすいお話ですので。
●ポルトマンの「生物学的早産」の意味とは
津崎 それはいいとして、大人になる前には僕たちは子どもであった。しかも、デカルトはその「子どもであった」ことを少し否定的に捉えているんだけど、ポルトマン(Adolf Portmann)という生物学者、知っているでしょ?
五十嵐 うん、知っている。
津崎 スイスの人なんだけど、彼の「生物学的早産」という話を少ししてみたいと思う。
大型の動物というのは、基本的には牛とか馬なんかでもそうだけれども、生まれたらすぐに運動できるわけだよね。立ち上がって、ご飯も食べられて、排せつもできる。つまり、「離巣性」である。巣を離れるということ。
しかし、大型の哺乳類であるわたしたちは「就巣性」で、生まれたての赤ちゃんは感覚能力は発達しているけれども、運動能力は全然ない。24時間、排せつとか、ご飯を食べさせたりとか、親や周りの人など社会の世話が必要だよね。
じゃあ、どうして人間というのは、感覚能力は非常に優れているけれども運動能力が非常に劣った状況で生まれてくる大型動物なのか。さっちゃん、知っている?
五十嵐 読んだことはないんだけど、たぶん動けないほうがいいからなんじゃない?
津崎 ポルトマンは生物学者だから、「問題は直立二足歩行だ」と言うんだね。大型動物で直立二足歩行している生き物は、人間しかいない。そうするとどうなるかというと、骨盤が小さくなる。骨盤が大きいと四つんばいになるから。
骨盤が小さいから、僕たちは直立二足歩行する。では骨盤が小さいとどうなるか。産道が短くなる。そうすると、母体のなかで赤ちゃんを大きく育てられないんだよね。人間の場合、本来だったら21か月子宮のなかにいなきゃいけないけれども、21か月も赤ちゃんがお腹にいたら、もう母体が破裂してしまう。骨盤が小さくて狭く、産道も短いから。だから、犠牲を払って10か月で生むという在り方を進化の過程で獲得していった。そして、10か月で生まれてくるときに最大限成長させたいのが、脳という器官なんだよね。
脳の器官だけはなるべく大きく育てて、他の器官、例えば運動に必要な手や足などは小さくする。そういう生物学的な理由から、人間というのは「頭でっかち」で生まれてくる。
その後、二次的に、社会という巣のなかで全員が子育てをする。子育てしない世の中はないわけだけど、そのなかでたくさんの偏見が入ってくるわけだよね。「日本人らしさ」とか「フランス人らしさ」とか「ドイツ人らしさ」とか。つまり、脱我というのは、わたしたちヒトがヒトとしてあるデフォルトにより、(誕生以後の成長の過程で)偏見に全員染まっているからこそ必要になってくるわけで、その理由は文化的・文明的というよりは生物学的にそうなっている、と。直立二足歩行に...