●自分だったらどうするかという判断力を鍛えるために歴史を勉強する
―― 三つ目の質問は、前回の五十嵐先生のお話に非常に通じるところだと思うんですけれども、好きなことを学んでいく形になっていくと、得てして一つの体系にどっぷりつかっていくことがあると思います。
一番極端な典型例を言ってしまいますと、イデオロギー的な部分であったり、宗教的な部分もそうかもしれませんが、例えばマルクス主義的な歴史観を学んだ人は、ずっとマルクス主義的な歴史観の価値観で、それに合うような話をどんどん自分の周りで理論化していくというケースがあります。
それが一種の鎧というものなのかもしれないけれども、自分のアイデンティティとも結びついていて、「世の中はこう見るべきだ」とずっと思ってしまっているケースがあるかもしれません。もちろん保守主義的な歴史観を持っている人からすれば、逆のふくらませ方もあるかもしれないわけです。
仏教を学んでいる人やキリスト教を学んでいる人にもそういうところがあるかもしれない。でも、今日の「抛下」というキーワードは、「離さなきゃいけない」「見直さなきゃいけない」局面があるというお話でした(第9話)。
ただ、ある程度学んだ人であれば、例えばマルクス主義の歴史観の弱点は、批判されるとしたらここだということも分かっているでしょうし、逆の立場でもそうだと思います。そうなると、非常に相対主義的になってしまい、自分のなかで何が正しいのか少し分からなくなり、どう思って生きていけばいいのかを見失ってしまう危険性もあるように思うのです。
学ぶときにどういう心がけで学んでいって、例えば自分とは違う理論、自分とは違う価値観についてどういうような形で対峙をし、向かい合っていって、その上で自分自身の価値観としてどう考えていくべきか。これについてもしヒントがあれば、ぜひ教えてください。
津崎 うーん。今マルクス主義の話が出たから、マルクス主義に限定すると、有名なのはカール・ポパー(Karl Popper)の「反証可能性」という考え方があります。
カール・ポパーに言わせれば、マルクス主義とフロイト主義というのかな、これらは科学=サイエンスではない。なぜならば、あらゆる反証や批判を受けつけず、すべてを文字通りきれいに説明できる。そのことに酔っていると言えばいいのかな。
科学というのは常に批判にさらされていて、それに応えることによって進展していく。けれどもマルクス主義とフロイト主義は、そういう反証可能性に開かれていないから科学ではない。そのようなカール・ポパーの批判が直ちに念頭に浮かぶけれども、ここで想起したのは、そういう難しい話ではありません。
なんだろう、やっぱり学べば学ぶほど不安になるというか、自分は本当に正しい方向に進んでいるのだろうかとか、あるいはこんなにたくさん勉強しても何も分からない、とかね。そういうふうに自分を見失ってしまうことというのはあるし、わたし自身もあるけれども、だから僕自身どうするかというと、そういうときに思い出すのが、例えばモンテーニュなんです。
モンテーニュは歴史を勉強することについて、それはたくさん学んだほうがいいとは言うんだけれども、年号や人名を覚えたりすること以上に、そういう過去の歴史の出来事に接した場合、自分だったらどのように対処するか、どのように判断するかという判断力を鍛えるために歴史を勉強すると言うのです。
だから、同じようにいろんなことを勉強するときに、「自分だったらどう考えるかな」というように、いったん自分に立ち返ってみれば、そういう不安とか、自分を見失ってしまう居心地の悪さみたいのは、なくなるとまでは思わないけれども、うまくマネージしたり、コントロールしたりできるんじゃないかと思います。
つまり、なぜわたしはこれに興味があるのか、わたしはこれについてどう思うのか。それは誰かの意見を自分の意見とすることじゃないでしょう。他でもないこのわたしはなぜこの哲学者に関心があって、他でもないこのわたしはなぜこの哲学者にこだわるのか。そのような問いを忘れないとき、ある一つのイデオロギーや、ある一つのドグマに凝り固まるようなことは、おそらくなくなるんじゃないかと思ったりしています。
●何かに凝り固まらないと不安で生きていられない人もいる
五十嵐 なるほど。それこそ歴史の話で言うと、歴史観というものがその国ごとにあって、子どもたちが学校でそういう歴史観を学んでいく。学校だから当然試験にも出るし、正解があって、国が要求する歴史観を身につけると点数も高いし、みんなから「いい子だね」と言われることになる。
集団でそういう歴史観を身につけていくということは日本でもあると思うし、他の国でも、ドイツな...