●教養は自分と世界の間に立つ「障害」を乗り越えること
五十嵐 今のパスカルの話は、結局「あの人はあれができる人だよね」ということじゃなく、「あの人」が思い出される。いろんなところで「あの人」に思い当たるというのがマイクのおっしゃったことだと思うんだけど、それってまさに前回のハイデガーの道具の話だと思ったんだけど。
津崎 どうつながるのかな。
五十嵐 「honnête」な「homme」でしょ。
津崎 femme(ファム、女性)でもいいんだけれども。
五十嵐 うん。“honnête”は「正直」ということで、別の言い方をすると「つくっていない」というか、自分と自分の心をオープンにして、そのままつながることができるということ。それはある意味、理想なんだけど、普通の人はそれができなくて、人にこう思われるんじゃないかとか、こうしたらこうなるんじゃないかと思って、自分をつくっちゃうでしょ。
津崎 うんうん。
五十嵐 つくっちゃうのはどうしてか。それはうまく人とつながることができないからだと考えると、教養って自分を拡大することではなく、前回の話で言うと、キーボードが使えないという障害とか、例えば敬語が使えないと、人と話すときに敬語のことばっかり気になって話がうまくできないとか、パソコンが使えないと文章を打てないとか、そういうふうにわたしたちは世界のなかでいろんな障害を持つけど、教養がある人はそういう自分と世界とか自分と相手との間の障害や邪魔になるものを持っていないというよりも、それをもう乗り越えていて、自由に自分のままで世界とつながること、相手とつながることができるようになっている人なんじゃないかな。
だから、「壊れたペン」はもう一つも持ってなくて、どんな場に行ってもどんな人と話しても──天皇陛下の席に行っても、ホームレスの人と一緒にご飯を食べるときでも──どんなときでも「オネット」で、自分のまま全面的に自分と相手、というように一緒に楽しめる。
津崎 面白い。
五十嵐 一緒に生きられる。そういう人を教養ある人というのかもしれない。だから、ドイツ語を習うのもフランス語を習うのも、ドイツ語ができるようになったことが教養なんじゃなくて、ドイツ語を習ったということさえ忘れて、ドイツ人となんの妨げもなく人間と人間としてつながっていける、「オネット」なわたしでいられる。そういうことが教養な...