●鎧に奪われた「本来のわたし」を取り戻す
五十嵐 外側にいろんな外敵がいて、そこからわたしという身体やわたしという領域を守るんじゃなくて、「本来のわたし」というか、「本来のわたし」を宿しているわたしは弱いから、外で生きていくために、いろんな鎧や服、名前や地位やお金というのをまとわないと、生きていけない。
だけど、それは本当は「わたし」ではない。本当はわたしではないのに、そのことを忘れてしまって、周りにある鎧や何かがわたしだと思っている。だから、わたしはわたしじゃなくて鎧として生きているのに、もうそれを忘れてしまっている。
そこで、わたしはもう鎧にわたしを奪われているというか、わたしがわたしを勝手に失っちゃっているのが通常のわたしの在り方なんじゃないか。そう思ったときに、わたしを守るとはどういうことかというと、やっぱり“politior”というか。周りのものというのは、わたしが必要だと思うからこそ身につけてきたものなんだけど、わたしが自分で獲得して身につけている対外的なもの──外から認めてもらえるための印や鎧や「キラキラ」──を、わたしが「捨てていく」という言い方は違うんだけど、そこからわたしがどう出ていけるか。どうやって「わたし」を獲得していけるかということ、そのことを「教養」というんじゃないか。そう思うと、教養とは身につけるものじゃなくて、身についていくもの。別の言い方をすると、教養というのはある意味で「勇気」というか。
津崎 そうだよねえ。「勇気」、なるほど。身につけるという発想は、どうしても買ってきたりした出来合いのものがそこにある感じなんだけど、結果として身についたという感じなんだね。
●わたしが存在するのは存在する意味があるから
津崎 結果として教養を身につけるための条件は一体何かといったら、それは勇気を持って自分を獲得する、取り戻す、見つける、ということ?
五十嵐 うん。前回の「規矩」というのは、結局「規矩を身につける」ということだと思っていて、それにはわたしであるしかない。どうしてかというと、「わたしである」しか目の前のその人と出会うことができないから。
だって、わたしが生まれてきたということは、わたしが生まれる必然性があったということだから。ほら、鎧だらけ、キラキラだらけで生きていたら、わたしじゃない。