●他者との出会いから立ち直るのは「レジリエンス」
津崎 面白いのは、“cultura animi”にしても“Bildung”にしても、どうしても僕たちは、自分で自分のことを高めていくんだという自己完結モデルで語りがちでしょ?
五十嵐 うんうん。
津崎 だけど、さっちゃんの話を聞いていくと、そういった、教養を身につけていく過程に「他者」との出会いがある。もっと言ってしまうならば、他者との出会いによってつまずいて、そこから立ち直っていく。
五十嵐 そうそう。
津崎 心理学で最近よく言われる「レジリエンス」という用語があるよね。もとは物理学で使われている。
五十嵐 こうでしょ(手でバネのような感じを示しながら)。
津崎 鋼などに強い力が加わったとき、戻ろうとする力のことを、レジリエンス、つまり「回復力」とか「忍耐力」と呼んでいて、心理学にも適応されている。例えば教養を、そういう「レジリエンスを持っていること」とも定義づけてみたいと思う。
●「究極的な他者」とは何か
津崎 他者の問題でさらに言ってしまうと、「究極的な他者」って何だと思う?
五十嵐 わたし。
津崎 さっちゃん。
五十嵐 究極的な他者とはすべての人のことで、自分の「他者性」みたいな感じで思っている。究極的な他者というものがいるんじゃなくて、他者性というか、「まだ知らない」ということ。だけど、それは当たり前……。
津崎 そう、「まだ知らない」がキーワードだよね。
五十嵐 そう、「まだ知らない」。どうしてかというと、例えばわたしはマイクを「まだ知らない」。それは、わたしが知ろうとして近づいていっても、マイクは絶えず動いていて、絶えず変わり続けているから。だから知ることができない。自分のこともそう。
津崎 人が教養を身につけようと思い始めるときに、ないしは実際に教養を身につけていこうとしている人たちにとって、何らかの意味での「他者」との出会いが必要であるというところまで話がきたね。
それは日常のさまざまな他人である場合もあるだろう。でも、僕はもうちょっと、他者とはこんなもんじゃないかと思っている。それは何かというと、「死者」。
五十嵐 うん。
●本当に「知らない他者」は二つしかない
津崎 絶対的な他者というのは、今目の前にいるさっちゃんも、もちろん僕は「知らない」という限りにおいて他者ではあるんだけれども、「知らない」ということをぐっと突き詰めていくと、本当に「知らない他者」は二つしかないと思っている。
一つは死んだすべての人、「死人」だよね。わたしが会ったことがない、例えばアウシュビッツで死んだ人とか。でも、もっとわたしの「知らない他者」とは何かというと、「自分の死」というか、自分が死んだとき。
五十嵐 うん。
津崎 それを僕はいまだかつて「知らない」し、これからも「知らない」。そういう意味では、本当の他者との出会いが引き起こすのは、知識を身につけていくという意味での自己拡大や拡張ではない。むしろ「自己更新」と言ったらいいのかな。
自分のOSを、コンピュータのOSのようにバージョンアップしていくこと。教養を身につけるということは、今までの自分のあり方を更新していくという意味でね。そういう意味では、自己更新が教養を身につけるということだと理解した上で、その更新のためには何らかの他者との出会いが必要になる。
その他者とは、実は今まで出会ったことがない「死者」なんじゃないか。今さっちゃんと僕は出会おうとしているけど、「死者」と比べたら、言い方は悪いけど他者としては生ぬるいんだよね。どうだろうか。
五十嵐 でも、わたしたちもある意味「死者」なんじゃないですか?
津崎 生きているけど?
●わたしたちは、「死者」をたくさんつくっている
五十嵐 だって「死者」というのは、もう決まっちゃった人のことでしょ?
津崎 ああ。
五十嵐 肉体的に死んでいるから「死者」なんじゃなくて、「その人はこういう人だ」ということがもう決まっていて、その人とのコミュニケーションができない。わたしが何を問いかけることもないし、もうその人からは答えが返ってこない。そう(「その人はこういう人だ」と)決めている人を「死者」と言うんじゃない?
例えば生きている相手だとしても、わたしがもうその人を決めつけてしまっている。わたしはその人に問いかけようともしないし、その人からの答えが返ってくるとも思いもせず、こうやって遮断してしまっている。そういう相手を「死者」と言うんだと思う。
だから、肉体的に死んでいるかどうかじゃなくて、もうこういうコミュニケーションというか対話というか、問うことも答えが返ってくるということもなく、一緒...