●「教養について話す」という無理難題
津崎 皆さん、こんにちは。筑波大学人文社会系でフランス哲学について研究したり教育したりしている津崎良典と申します。今日は、五十嵐先生とご一緒して、いろいろと楽しいお話を──楽しいかな(笑)
五十嵐 うん、きっと楽しい。
津崎 楽しいお話をしていきたいと思います。よろしくお願いします。
五十嵐 同じく筑波大学の人文社会系で現代思想の研究をしております、五十嵐沙千子と申します。前回「幸福とは何か」で、マイク(編注:津崎良典先生のこと)と皆さんとご一緒に楽しい時間を持たせていただきました。今日もきっと楽しい(笑)時間になると思います。よろしくお願いいたします。
津崎 よろしくお願いします。今日は、さっちゃん(編注:五十嵐沙千子先生のこと)と、イマジニアの「テンミニッツTV」の番組では2回目の収録になりますね。前回は──さっちゃんも今言ってくれたように──、「幸福について話してほしい」というリクエストがあったけど、今日はなんと!
五十嵐 教養。
津崎 もう毎回無理難題でここで失礼したい気分だけど(笑)、今日は「教養について話してほしい」ということで。困るよねえ、そんなこと言われても。
五十嵐 え、だって(津崎先生は)教養ありありでしょ。
津崎 というか、「教養について話してほしい」「じゃ、これから、教養について話しますね」ということほど教養のないことはないと思わない?
五十嵐 え、どうして?
津崎 だって、「教養について話してほしい」「分かりました」というのは、自分は教養があるというのが前提でしょう。「教養が自分のなかにあるから、教養について話してほしいというリクエストがあったんだな」「教養について何ほどかのことを、この人は知っている。だから教養について話す」というか。
五十嵐 でも教養について知ってなくても、「教養について考えている」ということでもいいかも。「教養、欲しいな」とか「ああいう人は教養があるからいいな」と思うことは、やっぱりあると思うんです。
●「ザ・教養」を身につけても教養人になれない
津崎 どうしてあるというふうに思う? 僕がというわけではなく、もうちょっと一般的に話してもいいと思うんだけど、「あの人って教養があるよね」というのは、どういうときだろう?
五十嵐 うーん。ものを知っている人って、あんまり教養があるという感じはしない。
津崎 なるほど。「物知り」は教養ではないと。
五十嵐 あと、教養を見せたがる人? 「わたしはこれも知っています」とか「これもできます」とかいうように。そういう「『ザ・教養』を身につけました」という人の教養は、教養ではないな、という感じがする。
津崎 今面白かったのは、すでに「教養は物知りのことなのかどうか」という問いがあったし、「ザ・教養」ということは、あらかじめ決まっている教養のリストみたいなのがあって、それを習得すればいいのか、という問いが出てきたことです。
でも、そういうことなのかな、という話にもなりそうだし、あるいは「自分には教養があります」と見せびらかすことは、やっぱり教養のありそうな人がやることではない。では、どういう人が教養のある人かということになってくると、さっちゃんとしてはどうだろう?
五十嵐 誰かが言っていたことだけど、「教養というのは学んだことを全て忘れたときに教養になるのだ」と。
津崎 「忘れたときに教養になる」?
五十嵐 そう。だから、「自分は何を知っている」とか「何を身につけた」と思っているうちは教養じゃない。自分が何を知っているか、何を学んだか、何を身につけたかということを全部忘れたときに、「教養がある人」になる、ということです。
津崎 なるほど。そうすると、教養は知識とは違う、ということ?
五十嵐 そうそう。そう思うでしょ?
●「できる」人は「できる」ことを忘れている
津崎 さっちゃんはどう?
五十嵐 例えば、パソコンで何か書類を作ろうと文章を打つときに、初心者の人ってパソコンが使えないから、いちいちキーボードを見るでしょ。「Aはどこだっけ?」みたいにキーボードばかり見ていて、なかなか文章にならないのが、まだパソコンがうまくないという証拠。そういう人に限ってパソコンができるようになったら、「わたし、パソコンできるんです」みたいに言うでしょ。
パソコンがすごくできる人は、「わたし、パソコンできるんです」とか絶対思わなくて、自分がどんな文章を打つのかに集中している。教養もそれと同じで、「わたしはこの教養を身につけよう」とか、「わたしはこれを学んだ」とかという「これ」が見えている間はまだキーボードを見ている状態と一緒。だから、逆にそういうときに変に「あ、わたしはパソ...