●プラトンの書かなかった「ある事柄」とは何か
津崎 プラトン(Platon)が『第七書簡』のなかで「ある事柄」について論じている。彼はそれを「ある事柄」としか言わないんだけど、「自分はこれまでもこれからも、その事柄について本は書かない」と言っている。他の学問についての本はたくさんあるけれども、人から言われても、その本は書かないんだ、と。
「この事柄」というのは、語ることができない。語ることができないから「この事柄」だ、とも言う。それは、絶え間ない共同の探求と共同の生活のなかでしか手に入らない、と。彼は、このように言うんです。「その後、ある人の魂にともったその炎が、他の人の魂に点火していくようにして……」。
五十嵐 ほんとそう。
津崎 その「ある事柄」というのが「哲学」なんだ。つまり、共同体というのは、一方でそのためにわたしたちは偏見を授けられるけれども、そのおかげでポルトマンの言葉を使うならば「社会的子宮」のなかでヒトから人間になっていくわけだよね。
五十嵐 うん。社会性を身につけてね。
津崎 そう。しかし、その共同体のせいでわたしたちは自分を見失うわけだけど、その共同体のなかでしか僕たちは、プラトンが言ったような共同生活と共同の探求も営めない。哲学を一緒にやっていく対話相手も見つからない。そうすると結局、教養はわたし一人では絶対に身につけられないということになるよね。
ということは、教養は公共財、公共のもの、みんなのもの、わたしたちのもので、「あの人は教養がある」とか「わたしは教養がある」というのは、教養の真の在り方からすると本当に正しい言い方なんだろうか。教養とは、共同の精神活動それ自体のことなのではないか。どこかにあってそれを身につけたり、誰かに差し上げたり、教え授けたりするものではなく。一緒にというと、どういう仕方か、というのはたぶんいろいろあるだろうね。それが「対話」なのか何なのか分からないけれども、とにかく何か一緒につくり上げていくようなものなのではないか、と。
●基準をつくった昔の人たちの声に耳を傾けよう
五十嵐 そうね。散歩?
津崎 散歩?
五十嵐 遠足?
津崎 遠足?
五十嵐 そう。ずっと定住していて、同じところでずっとその村のおきてを守って生きていくんじゃなくて、ふらふら歩きというか、一緒に出ちゃうというか。
前回わたしは、昔の大学の七つの普遍的な「基準」をつくった人たちに対して、「ハーバーマスは……」という言い方をしたけど、その基準だって、よくよく考えると、誰かが勝手につくったものじゃない。どこかから生まれてきたものでもなくて、いろんな人たちが「これが一番基準になるんじゃないか」と思って提案している、ということ。それは「集合知」というか、その基準のなかにもたくさんの人の思いや意見、声が入っている。
その声を出した人たちのことを忘れて、あたかも「教科書でしょ」みたいに受け取るから、単なる基準と思っちゃう。「それを守らないといけない“正解”なんでしょ」と思っちゃうけど、そうじゃなくて、いろんな人たちの声が贈与してくれているものだとしたら、その声だってわたしは聞いていいんじゃないかな。
そういうのを無視して、目の前にいる人と話せばいいというわけじゃない。目の前にいる人はもちろん生きているわたしをふらふら歩きに連れてってくれる他者だからすごく大事なんだけど、でもそういう集合知もすごく大事だな、と。
それに従うというわけじゃないけど、もう死んじゃった人たちの声、いろんな色付きのものを透明に磨いていくための声、贈与されている声も、なるべく聞くということ。それも教養だと考えると、教養というのは、色付きのわたしから“humanitas politior”にいくための「ふらふら歩き」なんじゃない?
津崎 なるほど。
●他者による共同体が教養を育む
五十嵐 そこに行ったらもう色はないから、すべての人と同じなわけでしょ。どんな人の靴も履くことができる。マイクの靴を履いたり、ハーバーマスの靴を履いたり、ハイデガーの靴を履いたり、それからわたしがあんまり好きじゃない人の靴も、わたしは履く。
津崎 だとすれば、共同体というのはできるだけ多種多様であったほうがいいよね。つまり、できるだけ多様な他者がいて──というか、多様な他者というのも変だよね。他者というのはもう唯一無二なわけだから。
五十嵐 そう。
津崎 多様ということすらおかしいのかもしれないけれども、少なくとも画一化された「顔なし」の人が大量にいるのではない。他人と置き換えることができない「顔」がたくさんあるような共同体であればあるほど、わたしにとっ...