●カンニングの告白で分かった本当の教養がある人の行動
五十嵐 わたし、カンニングしたことがある話、この前言いましたか。
津崎 先生なのに?
五十嵐 生徒の時。
津崎 最近、試験受けたのかなと思った。
五十嵐 受験はしていない、していない。
津崎 昔の話ね。
五十嵐 そう。高校2年生の時、国語で古文の授業があるでしょ。わたし、小学生・中学生の時はいつも本当にできない子だったんだけど、高校に入ったら突然できるようになっちゃって、古文の先生が「あなたは古文、すごくできるよ」みたいに言ってくれた。そう言われたもんだから、わたしも調子に乗って、「わたし、古文のできる人なんだ」と決めちゃったの。
それで、一生懸命勉強していたんだけど、ある定期試験の時にわたしが98点だったのね。そしたら先生がテスト(答案)を返してくれるときに、「今回最高点は98点でした」というのね。わたしのことなんだけど。でも、それは「100点がいなかった」ということで、わたしが98点だったから「ちょっと問題がまずかったかな」みたいなことを言ってくれた。
その時、わたしは「あっ」と思った。「わたしは100点であるべきだったんだ」と思って、何をしたかというと、消しゴムで間違っているところを消して、正解にして、先生のところに持って行ったの。
津崎 「採点ミスです」と。
五十嵐 そう。「先生、わたしこの通り、ちゃんと書いています」と言ったの。そしたら先生、全部分かってらっしゃったと思うんだけど、「ああそうなのね。採点ミス、ごめんね」と言って、丸にして100点にしてくれたの。それで、わたし、もう二度とカンニングはするまいと思った。それ以降一回もしていないんだけど、古文でどんな問題が出てもちゃんと100点が取れるようにと思って勉強したのね。
津崎 レジリエンスが働いたわけね。
五十嵐 レジリエンスなのかな。
津崎 つまり、優越感と劣等感、二つの感情にさいなまれていたわけでしょ。「自分は古文ができるんだ」という優越感と、しかし100点と比べると「2点取れなかったんだ」という気持ち、満点を取れたかもしれない「可能的」な自分やそういう人に比べると、自分は「2点劣っていたんだ」という劣等感もある。
「自分はすごくできるんだ」という優越感。それは人から与えられた優越感かもしれないし、自分の努力で得た優越感かもしれないけれど、現実問題として100点は取れなかった。取れてしかるべきだという自分の理想と比べての劣等感。この二つがあって、「わたしはカンニングしないんだ」と、自分のあり方を更新したわけだよね。
五十嵐 その後ね。
津崎 ここじゃないのかな、本当の教養がある人の行動というのは。
五十嵐 うん。
●優越感も劣等感も抱かない人生はあり得ない
津崎 教養は、もはや「知識」の問題ではないという合意に至ったうえで、だったら何だろうと。だって、この世の中は全員みんなが優越感と劣等感を感じながら生きているわけじゃない? どんな組織にいても、ね。でも、それをできるだけ排除しましょうというのが最近の、特に小学校や中学校の風潮でしょ?
五十嵐 うん。
津崎 運動会では一等賞を出しません、とかさ。それに僕が給食を食べたのはもう30年も前の話だから思い出せないけど、「最近の給食はどうも」という話があって、鮭などのお魚を切り身のままで出さないんだって。
五十嵐 へえー。
津崎 人から聞いた話だから、もう今は違っているかもしれないんだけれど、その理由が笑える。ほら、鮭を切り身のままで出すと形が違うじゃない。そうすると、「あの人は大きい」「この人は小さい」となる。
五十嵐 ああー。
津崎 それでどうするかというと、その人から聞いた話では、全部すり身にするんだって。つまり団子にする。そうすると全員同じ。
五十嵐 そんなの平等じゃないでしょ?
津崎 でも、それが平等だと教育の現場では思われていて、できるだけ優越感や劣等感を生徒・学生に抱かせないようにする。でも、ちょっと冷静になって考えてみると、優越感も劣等感も抱かない人生はあり得ないでしょ?
五十嵐 うん。
津崎 それをうまくコントロールして、そこから自分をどうやって、高めていくか、広げていくか、改めていくか。どういう動詞を使おうが自由だと思うけれども、そのようにしていく回復力というのも、実は教養なんじゃないかと思う。
●恥の感情と教養の問題
五十嵐 わたしは、古文の授業で自分のことを先生の期待に沿う作品でなければいけないと思っていて。それは、先生がわたしを「必ず100点を取る人間だ」と認めてくれたと思ったから。全然そうじゃないのに、認めてくれたと思ったから。だから、わたし...