●人間の精神では理解しきれない神
ここからがすごく難しくなってくるのです。少し脅すようで申し訳ないのですが、本当にデカルトのギヤがグッと入って、思考のスピードがガッと上がってくるところです。
デカルトはこう言っています。
物体について論じているとき、論じるために必要な道具立て、例えば一冊かどうかを判断するための数字であったり、こうした本が朽ちているかどうかを判断するための持続という観念であったり、こうしたモノが止まっているか止まっていないかを判断するための運動という観念だったり、このようなものは、実は私が自分の精神を分析すれば出てくることです〔精神は単一なのか複数なのか、その思考は持続しているのか、精神は静止状態にあるのか……と問うことで〕。でも、私の精神を分析したときに、なぜか私があらかじめ持っている道具立てでは記述できない何かがあると言うのです。それが神だと言うのです。
●疑う《私》の有限性
このあたりの理論は難しいので、一度、最初の出発点に戻りたいと思います。デカルトは『省察』という本の中で何から始めたかというと、疑うことから始めました。
どうして疑うのでしょうか。理由は簡単です。私たちは全知全能でないからです。全知全能であったら、疑う必要は全然ありません。常に完璧な回答が得られているからです。もし疑うということが成立しているなら、残念ながらそれは私たちが全知全能でないからです。
さて先ほど、デカルトは「我思う、ゆえに我在り」と述べたと、ご紹介しました。この「我思う、ゆえに我在り」は、実は「我疑う、ゆえに我在り」といっても構わないと言いました。ということは、この疑っている私が存在しているということは、この疑っている事態はどこから来たのかと、デカルトは考えます。疑うということは、或る種マイナスなこと、否定的なことですね。全知全能ではないということで、つまり限りがあるということです。この限りがあるということを「有限」と言います。疑っているのは、実は私が有限な存在だからです。さらにデカルトは思考を深めます。思考が持続しているのです。
●無限という観念は非常に重要
有限ということを一体どのようにして、知ることができるのでしょうか。それは私がそもそも無限というものを知っているから、有限だと自分のことを判断できるのです〔有限と無限の関係は、山と谷の関係に似ています。山あるところ谷あり、有限あるところ無限あり、ということです〕。
では、無限なものとは何か。それは神しかいない。神は全知全能という能力をもっているわけだけど、それは無限の在り方をしているに等しい。疑っている自分を見いだして、その自分が存在していると判断するが、疑うということは私の能力に限りがあるから、つまり有限だからだ。この有限だということを、私は一体どこから知ったのか。それはそもそも生まれつき無限という事態を理解しているから、自分をそう捉えることができるのだ。そう、デカルトは気付きます。ではその無限なものとは一体何なのか。神だと言うわけです。
さらにデカルトに言わせると、私たちが観念という仕方で理解しているものは存在していると言います。無限という観念をもっているのなら、その観念によって指し示された当の無限者も存在しなければならない。だから神は実際に存在するのだ、とデカルトは第三省察の中で明らかにします。
この無限という観念は非常に重要です。有限なものを否定すれば出てくるような無限ではありません。あるいは少しずつ無限に近づいていくという継起的な無限でもありません。現実にすでに無限なものとして存在している、その限りでの無限なのです。
●デカルトのオリジナリティは思考の過程にある
デカルトの言う「我思う、ゆえに我在り」ですが、それは4世紀から5世紀、アウグスティヌスという北アフリカ出身のラテン教父が書いたものの中にも出てくる言葉です。そこで、同時代の知識人からは、剽窃とまでは言わないまでも、その焼き直しだと、そのように批判されて、デカルトもそれをしぶしぶ認めざるを得ませんでした。
しかし、高校で使われている倫理の教科書では、デカルトの名前とともに「我思う、ゆえに我在り」が紹介されています。では、デカルトなりのオリジナルは一体どこにあるかと言ったら、その思考の過程です。
まず疑ってみる。どうしてかというと、自分の正しいものの知り方を獲得するためで、方法的に疑うということです。疑っている過程でその疑っている当の自分というものの存在に気付く。と同時に、その疑いという知的な努力を...