●典拠となる序文を書いた万葉歌人は大伴旅人ではないか
こんにちは。今日は、新しい元号として発表された「令和」の出典であるといわれた『万葉集』「梅花謌卅二首并序(梅花の歌三十二首、并せて序)」とされている部分について、ご説明したいと思います。
現在、「梅花の歌三十二種の序文」の作者は、大伴旅人ではないかとする意見が最も有力です。漢文で書かれた文章なので、簡単にご紹介していくため、まず全文を読み上げてみましょう。
「天平二年正月十三日に、帥老(そちらう)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)べたり。
時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かを)らす。しかのみにあらず、曙(あけぼの)の嶺(みね)に雲移り、松は羅(うすもの)を掛(か)けて盖(きぬがさ)を傾(かたぶ)け、夕(ゆふへ)の岫(くき)に霧(きり)結び、鳥はうすものに封(と)ぢられて林に迷ふ。庭に新蝶舞ひ、空には故雁帰る。
ここに、天を盖(きぬがさ)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝(ひざ)を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室(いっしつ)の裏(うち)に忘れ、衿(ころものくび)を煙霞(えんか)の外(そと)に開く。淡然(たんぜん)に自(みづか)ら放(ほしいまま)にし、快然(くわいぜん)に自(みづか)ら足(た)りぬ。
若(も)し翰苑(かんゑん)にあらずは、何(なに)を以(もち)てか情(こころ)をの(手偏に「慮」)べむ。詩に落梅(らくばい)の篇(へん)を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)と夫(そ)れ何か異ならむ。宜(よろ)しく園梅(ゑんばい)を賦(ふ)して、聊(いささ)かに短詠を成すべし。」
●三十二の梅の歌を導き寄せる壮大な序文の意味
簡単に訳してみましょう。
「天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸宅に集まって、宴会を開く。
折しも初春正月の良い月で、外気は心地よく、風は穏やかである。梅は鏡の前のお白粉のような色に花開き、蘭は匂い袋の従える香のように薫っている。それだけではない、夜明けの嶺には雲が移り来て、松はその雲のベールを掛けてまるで絹傘をさしかけたように見え、夕方の山の穴には霧が立ちこめ、鳥はその霧の薄絹に閉じ込められて林の中で迷っている。庭には生まれたばかりの蝶が舞い、空には去年飛来した雁が帰って行く。
そこで、天を傘とし大地を敷物として、膝を交えて酒杯を酌み交わす。一堂の内では言葉も忘れて楽しみ、美しい景色に向かって心を解放する。こだわりもなくして気ままにふるまい、愉快になって満ち足りた思いになる。
もし詩歌でなければ、何によってこの心情を表せようか。漢詩では落梅の篇を作るが、昔も今も違いはない。さあ、この庭の梅を題として、短歌を詠もうではないか。」
こういう内容の序文で、その後に三十二種の和歌があって、しかもその後にもまた和歌のやりとりがあるという大変大きな試みになっています。
●太宰府長官だった大伴旅人が梅の宴を企画する
天平二年は西暦730年。大伴旅人は六十六歳の高齢で、大宰の帥(そち)、すなわち九州を統括する役所である大宰府の長官として赴任していました。大宰府は、また外交・防衛の拠点でもありました。旅人は二年前に赴任したのですが、赴任後まもなく妻である大伴郎女(いらつめ)を喪っています。
ただ、文学的な意味合いでは、この太宰府の地で、彼が重要な人物と出会ったことがそれより何より大事です。相手は、先に筑前の国司として赴任していた山上憶良で、有名な歌人です。二人はこの地で出会い、身分はかなり違うものの、詩歌を通して交流し合い、文学的に大いに共鳴し合ったわけです。そのことが、また旅人と憶良の文学的境地を、それぞれに深めていきました。
ある日、旅人は多くの官僚たちを招待します(もちろんその中に憶良が含まれています)。旅人の家の梅の花を愛でる宴会を計画したのです。皆で和歌を詠もうと思い立ったわけで、主催者はもちろん旅人です。そして、まずその場の様子を述べた。それが、漢文で書かれた先の序文なのです。
実際、作者が誰なのかについてはいろいろな説がありました。ただ、現在ではやはり主催者である旅人が書いたのではないかという説が有力ということです。
●歌詠みにふさわしい「時」と「場」をあらわした一節
序文では、まず「天平二年正月十三日」と、「大伴旅人の家に集まって宴会を開いた」という簡単な説明があります。これを第一段落とすると、次の第二段落冒頭の部分が、「令和」の元になった一文です。
「時に初春の令月にして、気淑く風和ぐ」
(折しも初春正月の良い月で、外気は心地よく、風は穏やかである。)
こ...