●政経塾と並行して東大大学院へ
―― 小野寺さんにとって松下政経塾とはどういう存在ですか?
小野寺 これは今の政治家として、こういう立場にしてもらった大切なきっかけになる場所でしたし、また、卒塾した後もそこの先輩後輩の皆さんに恵まれて、いろいろなところで助けてもらったり、あるいはお互いに切磋琢磨する、そういうところだと思います。本当に政経塾がなかったら、今の政治家としての立場は当然考えることさえできないと思います。
―― 政経塾が終わった後で東大の大学院に行かれるとは、向学心があるのですね。
小野寺 あれは実を言うと、政経塾に入っている途中で行かせてもらったのです。塾に入って一番思ったことが、私は基礎的な知識が足りないということでした。それで政治学を学ぼうと思い、東大の大学院法学政治学研究科に入れていただいて、法学と政治学の基礎をそこで学びました。当時、塾は非常におおらかだったと思うのですが、政経塾で学べないところを東大できちんと学んで来いということで、実は了解を得て大学院に行かせてもらっていました。
●何より大切なのは、政経塾、大学院で得た人との縁
―― それが非常に役に立つわけですよね。
小野寺 役に立ちましたね。例えば、今こういった安全保障の分野の仕事をする中で、有識者の方々にお会いしたりもするわけですが、当時、自分が院で教わった先生方が中心なのです。ですから、有識者のリストが出てくると、大体は、あのときのこのような授業のこのゼミで、そのときの私のレポートにあの点数を付けてくれた先生だな、などと思えるのですね。
―― そういう人間関係を培った場所というのは大事ですね。
小野寺 はい、とても大事です。それから、その後もこういったご縁は非常に大事で、例えば政経塾で教わった北岡伸一先生はその後、東大の先生をされた後、ニューヨークの国連の大使になられました。ちょうどあのとき、私は外務大臣政務官という仕事に就いておりまして、国連の仕事を担当していたために国連に行き、そこで北岡先生にばったりお会いしたのです。
「先生、あのときお世話になりました。覚えていらっしゃいますか」などという話をしていましたら、北岡大使が配慮してくださって、「今日、安保理で北朝鮮に対する非難の決議が行われる」とおっしゃり、多分あれは北朝鮮の核実験の非難決議の初めだったと思いますが、何とあの安保理の15人のシート、あそこに私を座らせてくださったのです。そして、北岡大使が後ろにいらっしゃるところで、非難決議のためのスピーチをさせていただいたのです。これは、私にとって大変記念になることだと思います。これもやはり政経塾でも大学院でもお世話になった、そういう関係からご配慮いただいたものだと思います。
また、今回の安保法制懇の座長代理ということで、実際取りまとめていただいているのも北岡先生です。こういった大変いい関係がありますね。
あるいは防衛省と直接関係あるところで言えば、例えばPKOの活動などで、いろいろな方と一緒に海外で活動するのですが、JICA(独立行政法人国際協力機構)の今の理事長は田中明彦先生で、私が大学院のときに教わった先生なのです。ですから本当に、政経塾、東大の院のときに培った人脈が、安全保障の今の役割に大変役立っていると思います。
―― でも小野寺さんの人柄ですよね。地元の気仙沼も宮城県も皆、人が繋がっていきますものね。
小野寺 ネットワーク、人とのつながり、それが皆と仕事をする上で重要ですし、だからこそ社会に還元できるような、そういう仕事をしなければならないと思っています。