●天安門事件から導きだされる2大テーマ-冷戦終焉と中国の経済成長
今年2019年は天安門事件から30年たちました。世界史の中で非常に大きな役割、大きなインパクトを与えた天安門事件ですが、実は4月にテンミニッツTVで「平成の30年」についてお話をしました。平成の30年は日本人にとっては意味のある30年ですが、世界史の中ではそれほど大きな意味はありません。
むしろ、天安門事件の後、中国は大きく変化しました。「エレファントカーブ」についての講義の時、中国の中間層が増加したため、エレファントカーブにおける中国ファクターは大きいというお話をしました。
それから、図を見ていただくと分かると思いますが、天安門事件の後の30年の中国の経済発展というのは目覚ましいものがあり、実質GDPは世界第2位、購買力平価でいくと世界1位となります。
では、ここで大きく2つ問題を考えてみます。1つは冷戦終焉に果たした天安門事件の役割についてです。もう1つは、ソ連、あるいは東欧圏の体制崩壊ということを目にしていながら、なぜ中国は体制崩壊を免れたのか、そして、経済成長をしたのか、ということです。それが今回の大きなテーマです。
●天安門から吹いた東風がソ連・東欧へ
私の個人的な経験で申し上げれば、ハーバード大学にいた時に、社会学者のエズラ・ヴォーゲル先生としばしばお会いすることがありました。特に外国人、あるいは中国人の学者などがハーバードに訪問した時に、一緒に中華料理店でお話をする機会があったり、またはセミナーの前の食事に招かれて、会話をする機会があったのです。
そこで、天安門事件について中国の学者にこう言ったことがあります。「なぜ、暴動に対して戦車を出したのか」と。その時の答えは非常に単純で、放水車や催涙ガス、機動隊の装甲車のようなものがなかったからだという返事でした。佐々淳行さん(初代内閣安全保障室長、元警察・防衛官僚)にお会いした時、彼は「天安門事件以降に中国に行って、いわゆる暴鎮(暴動を鎮圧する機動隊の活動)についていろいろ教えたことがあります」と仰っていました。
ヴォーゲル先生に私の1つの仮説、考えを申し上げました。その時は、「天安門事件というのは、非常に強い東風(偏西風の逆)が吹いて、ソ連・東欧圏の体制崩壊の原因になった。その風がもう一遍、中国にまわってくるのに1年くらいかかった。その時間の余裕があったので体制の立て直しをすることができた」というお話をしたのです。
この東風説にヴォーゲル先生は反対こそしませんでしたが、強い支持もしませんでした。何を言っているかというと、まず革命、あるいは体制変革ということは、権力奪取、つまり力で権力を握るという説があります。それからこの東風というのは、ある意味で伝播する、つまりコミュニケーションとか情報が伝わることによって体制が揺らいで体制変革が起きるという伝播説があります。あるいは、体制自ら、システムが進化的に変化して転換していくという説など、いろいろな説があります。この中の伝播説を私は言ったわけですが、むしろヴォーゲル先生は権力奪取説の方を、多分大きく捉えていたのではないかと思います。
●年表で天安門事件を振り返る
天安門事件というのは何だったのか。天安門事件の年表があるので、それを見ていただくと、1989年4月15日に胡耀邦が亡くなりました。胡耀邦に親近感を持つ学生たちがずいぶんいました。天安門広場で追悼があったり中南海に押しかけたり、あるいは人民日報が学生たちの運動を「動乱」と社説で書いたことに反発をしたりして、天安門広場でハンストが行われました。また、ソ連のミハイル・ゴルバチョフがこの時に中国を訪問します。その頃、天安門にはまだ学生たちがとどまっているので退けようとしました。しかし、学生たちは退きません。そこで、開催会場を変えたりしたことがあります。
この学生たちに比較的同情的だったのが趙紫陽です。実は、趙紫陽はこの天安門事件を契機に失脚します。彼は学生たちと話し合いをしたのですが、この段階ではすでに強行的に学生たちを排除するということが決められていました。われわれが見ているのは、天安門広場に戦車が押しかけてきて、それを阻止する学生や市民という構図ですが、実は至るところで軍が進軍しようとしたところを阻止する市民たちがいたのです。ここで武力弾圧を行ったということです。戒厳部隊を指揮していたのは事実上、鄧小平でした。それから、1992年の鄧小平の南巡講話(談話)までの間というのが、非常に重要な時期になります。
●ソ連・東欧年表に見る天安門事件の影響
この話と世界の歴史の流れとをどうか...