●「わが国のために頑張る」という世界最大手の通信機器メーカー
前回お話ししたような政府の方針があるとはいえ、実はそれ以前から中国には、たいへん意欲的な企業がたくさん出始めていて、経済を引っ張っています。政府は、それらの企業の発展を横や後ろから見ながら応援するというスタンスです。
今回は、それらの企業のなかでも最も重要な企業として、世界最強ともいえる最大手で通信機器メーカーとして知られる「華為」について、皆さんと一緒に学べるよう、語りたいと思います。日本ではカタカナで「ファーウェイ」と記されていますが、中国読みでは「ファーウェイ」ではなく「ホワウェイ」です。「ホワ」が中華の「華」、「ウェイ」が「為」の字。つまり「わが国のために頑張る」という意味の名前を付けた会社です。
この会社は、歴史的にはわずか30年ほどですが、世界のトップに立ちました。情報化のためのインフラである通信機器から、基地局、端末に至るまで、世界最強の企業です。19万人の従業員を擁し、うち8万人までが開発研究者です。売上は11兆円を超え、まさに「世界最強のイノベーション・カンパニー」といわれています。
私はたまたまこの企業を訪ね、中身をじっくり見学させていただいたことがあります。また、企業の幹部の方と何回も話をして、ある程度の理解に至りました。その体験も踏まえて、皆さんにご紹介していきたいと思います。
●創業者任正非氏のプレ・ヒストリー
まずは1987年に創業して、今日まで32年の歴史をざっと振り返ってみたいと思います。
創業者は任正非(にんせいひ、レンツェンフェイ)氏です。1944年に貴州省安順市に生まれました。とても貧しい地域です。両親は学校教師でしたが、7人の子どもを学校に通わせるため、食事も満足にできない状態でした。そんな少年時代を過ごしたようですが、1963年に高校を卒業して、重慶建築工程学院(現・重慶大学)に進みました。
ところが1966年に、皆さんご存じの文化大革命が起きます。文化大革命では、教育者が最初の標的だったようです。真面目な教師だった両親は、インテリということで「牛小屋」(反革命派を収容する牢獄)に投獄されます。両親は革命を支持していたにもかかわらず、教師だという経歴だけで理解されず、思想改造追及に遭います。三角帽を被せられて牢獄で吊し上げられ、10年間、悲惨な生活を送ったのです。子供の頃にそれを見ていた任氏の人生観に、おそらく強烈な影響を与えていると思います。
任氏は1970年に人民解放軍工兵部隊に入隊しますが、父親が反革命分子として追及されていたため、共産党には入党できませんでした。退役したのは1983年、彼の所属していた部門が解散したためです。そして、電子企業でセールスマネジャーとなりますが、商売を知らなかったので、テレビの売買をめぐる詐欺に巻き込まれ、「こんなことではたまらない」と責任を取って退任します。
●ファーウェイ創業の苦労
任氏は家族とともに、六畳一間のタタキの部屋で数少ない布団を分け合ってみんなで寝るという惨憺たる苦労をされたようです。そのようななか、6人の共同出資者で資本金2万1000元(約31万円)の会社を深セン市につくりました。
これを「華為(ファーウェイ)技術有限公司」と名付けます。最初は脂肪を減らす薬や墓石などの販売もしていたようですが、翌年、遼寧省のある農村の電信局長の紹介で、香港の交換機メーカー康力公司の輸入代理店となります。この香港企業が買収されたため、ファーウェイの代理店権利は消えてしまいました。
そこで翌年、彼は代理店からメーカーへの転換を決断します。当初は部品全てを他社から入手していましたが、そのうち簡単な部品は自主製造できるようになり、2年後には主要部品は自主開発するようになります。
ところが、任氏は並外れた先見の明の持ち主だったようで、交換機の技術はデジタルが主流になることを直感します。たいへん早い着眼だと思います。そして、デジタル交換機の製造を決意するのですが、当時はアメリカに10年ぐらい遅れを取っていました。
ファーウェイは1993年に電話局用デジタル交換機の自主開発に成功、1994年から本格販売を開始します。当時、通信機メーカーは200社ほどありましたが、局用デジタル交換機を自主開発できたのは5社のみだそうです。
創業期には民間企業はまだ怪しまれる存在で、商品が売れないので農村部に行って必死になって売り歩きました。そんな苦しい経験をした仲間が、現在のファーウェイのトップ幹部になっています。
この時、「つくって売る。と同時に研究開発する」という経験をします。小さい組織だから全部行わなければいけないのですが、この一体性が、今日の世界的巨大企業になったファーウェイの「研究開発・製造...