●改革開放・高等教育制度改革が後押ししたファーウェイの発展
情報産業の急激な発展の背景にどういうことがあったかを少し振り返っておきましょう。これには、鄧小平が始めた「改革開放」が非常に大きな影響力をもっています。
鄧小平は1979年から改革開放を進めましたが、1989年の天安門事件で一時頓挫をします。それからしばらく様子を見て1992年、鄧小平は上海や深セン、武漢などで改革開放路線を説いて回ります。「南巡講話」として、たいへん有名です。深センでは人々とじっくりその問題を語り合い、「ここはモデル都市だ」とまで言っています。
その頃の通信事業は、「郵電部」という昔の日本の郵政のようなところが運営していました。ところが、1978年以降、改革開放の動きで、権限を地方に移す分権運動が始められます。南巡講話の行われた1988~1991年頃には、電気通信産業に関する権限が全国2500箇所の電信局に移転されました。
さらに、非常に重要なことですが、1985年の高等教育制度改革で、自主的職業選択制度が導入されます。これは何かというと、それまでの中国では、大学生の卒業後の職業に関しては政府が全部配置していて、自分では選べなかったのです。
それが初めて選べるようになったので、あまり知られていない民間新興企業でもアプローチできるようになり、高度な産業に参入できる余地もあった。ある意味では、ファーウェイはぎりぎりのチャンスをつかんで飛び出したということです。
●弱小民間企業が巨大国有企業に勝てた理由
1990年代は、世界的に通信自由化が非常に進んで、通信産業に多くの企業が参入していきます。中国では200ぐらいの企業が参入したそうですが、デジタル交換機自主開発に成功して存続したのは、たった5企業だったようです。
まず、国有の巨龍(巨龍通信設備有限公司)、次に国有の金鵬(金鵬電子有限公司)、国有の大唐(大唐電信科技股有限公司)、それからファーウェイ、そしてZTEという名前で知られている中興通訊は半国有半民間です。
こういう企業のなかで、なぜファーウェイが突出できたのでしょうか。その後、巨龍は消滅し、金鵬は主要5社から脱落します。大唐は低迷し、ZTEは存続したもののファーウェイのはるかに後塵を拝することになりました。
なぜこうなったか。国有系の企業は、たくさんあった企業を政府の肝煎りで連合させて、大組織としたようです。これでは責任体制が不明確になります。また、国有企業は政府が一所懸命資金を提供してくれるのですが、政府の資金を受けると自立心が低下します。そんななか、ZTEは半分国で半分民間ですが、ファーウェイは完全な民間で、任正非氏の独特な経営理念と人材管理で傑出していたわけです。
国有企業は「単位」とも呼ばれ、「鉄の鍋で飯を食う」と言われていました。鉄の鍋は壊れないことから、終身雇用で安心だというのが、共産主義社会の国有企業のあり方です。そこに国が資源も人材も注ぎ込むため、圧倒的な優位性を持っています。
しかし、ファーウェイの採用したソフトウェア技術者の管理に適した「戦略的人的資源管理」は、国有企業には逆立ちしても無理なのです。そうしたユニーク性を出すことで、ファーウェイは先へとどんどん走っていったのだと思います。
●研究開発人材の能力と意欲をいかに発揮させるか
デジタル化は、通信機器製造の主要技術をハードウェアからソフトウェアに変えていきます。したがって、ソフトを生産する技術者が最も重要な資源になります。
ソフトは全て人間が生産するため、顧客の要望を聞くことができます。誰が使うのかを考え、使う人たちの要望を叶えやすいわけです。「顧客のニーズに応える」のは、ファーウェイの企業戦略の核心です。
そのソフトウェアに経営資源を集中したファーウェイの戦略は、創業者である任正非氏の直感と、最高の教育を受けた若手技術者の密接なアライアンスから発展したものといわれています。つまり、ファーウェイの自主的な技術形成は、経験豊かな任正非氏の経営能力と若手技術者の高い専門性から生まれたということです。
ここでは、研究開発人材の能力と意欲をいかに最大に発揮してもらうかが、要になります。任正非氏は、能力主義的職能給制度に加え、世界にも珍しい従業員持株制度を導入します。19万人の従業員のうち9万人以上が株を持っているので、ファーウェイは「従業員所有型」の企業ともいえるわけです。さらに裁量労働、非常に開放的な内部昇進制度などを取り入れて、ほとんど世界のどの企業も真似のできないユニークな人材管理法としました。
しかし、1990年代においてさえ研究開発人材のほとんどは国有セクターに取り込まれていました。弱小の民間企業が優秀な人材を確保するのは本当に大変だったのです。だ...