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織田信長のシーレーン構想を明智光秀が理解していたら

信長軍団の戦い方(2)シーレーン構想と明智光秀の謀反

中村彰彦
作家
情報・テキスト
明智光秀
「ときは今」と発句を詠み、主君である織田信長を自刃に追いやった明智光秀。彼が謀反を起こした理由は何か。そして、なぜ、三日天下と言われるほどの早さで天下人の座を豊臣秀吉に奪われたのだろうか。歴史に「もし」はないが、シーレーン構想など信長の戦略性を少しでも光秀が引き継いでいたなら、歴史は変わっていたかもしれない。(全3話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:11:00
収録日:2019/11/06
追加日:2020/03/03
キーワード:
≪全文≫

●なぜ、明智光秀は裏切ったのか


中村 「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と安国寺恵瓊が予言した通りの人生を織田信長は歩んだ。明智光秀の裏切りがあったからですが、この人にはついて行けない、いくら忠義を励んでも、やられるときはやられると家臣が思ってしまうようなところが信長にはあったのです。

―― 捨てるときはスパッと捨ててしまう、と。

中村 そうですね。佐久間信盛・信栄親子は「お前らは5年間大坂に張り付いていながら、何もしなかった。とっとと高野山に登るか、(討死して)腹を切るか、どっちかにしろ」と凄まじいせりふで信長から脅かされて、慌てて高野山に行きます。その後間もなく信盛は死んでいますが、ショックで寿命が短くなってしまったのではないでしょうか。もう少し佐久間家に対するやり方があっただろうにと思います。

―― 仕えている身からしたら、たまらないですね。

中村 はい。明智光秀にしても、丹波をもらったと思ったら、丹波は1回取り上げるので、また次へ行けと、常にエンドレスに最前線に立たされ、安住の地はどこにもない。にもかかわらず、失敗したらめちゃくちゃやられる。成功して、国家の治国平天下に役立つのが、当時の戦国の武士道なのですが、その目的をいつ果たせるか分からないような非常に不安な状況に追い込まれていくわけですね。

 もちろん、なぜ、光秀が信長を裏切ったのかについては百人百説あるのですが、信長に対する敬愛の念が抱けない、どんなに頑張ってもやられるときはやられるのではないかという不安感があったのではないでしょうか。加えて、戦国の世に生まれ落ちた人間として、あるときまでは最有力者を支える立場でいるけれども、どこかで追い抜いて、自分が上に出たい、天下人になるゲームに参加したいという気持ちは誰もが持っていたと考えられます。

 例えば、蒲生氏郷は非常に信長にかわいがられて、秀吉政権になってから、100万石近い大所帯である会津をもらったのですが、会津へ行けと言われた時に、クククッと泣いた。会津はあまりに遠い。近畿および京阪の近くにいれば、一朝事あるときにはすぐに京都に旗を立てて、天下人争奪のゲームに参加できる。会津にいては参加できないと言って泣いたのですね。もちろん、蒲生氏郷は、信長にも、秀吉にも忠義を尽しているけれども、チャンスがあれば天下人になりたいという憧れは持っています。だから、光秀もそういう気持ちは持っていたと考えたほうがいいですね。

 信長は部下たちに四国征伐を命じ、その間、3月に武田勝頼を滅ぼしているわけだから、やれやれという油断もあったのでしょう。わずか3カ月後に光秀に西国への出動命令を下しておきながら、自分はほんのわずかな小姓たちとともに京都の本能寺に入る。倅の織田信忠も500人程度の兵隊しか連れていない。しかも一緒に本陣にいるのではなく、ばらばらにいる。光秀は、丹波から西に向かっていたけれども、すぐに引き返せる距離にいたため、突然、天下人になるチャンスが目の前に開けてしまった。三日天下と言われるけど、本当は13、14日ある。数日でもいいから天下人と呼ばれたいという欲望に勝てなかったのではないでしょうか。

 歴史家の谷口克広さんの研究によると、当時、光秀は70歳近かったそうです。新しい説ですが、もし70歳を過ぎていたなら、一か八かで1回だけやってみようかと、賭博性のある考え方に惹かれることもあり得たのではないでしょうか。


●織田信長のシーレーン構想を理解できなかった明智光秀


中村 歴史上の「もし」、ヒストリカル・イフを1つ言うと、光秀が信長の戦い方、虐殺戦、殲滅戦を非常にいやなものとして見ていたかもしれませんが、より手近に見ていて、なるほどと参考にして天下取りの道を邁進したらどうだったかと考えることがあります。

 信長は浅井家を滅ぼして、浅井の領地は秀吉に与えるけれども、城は、長浜に移させる。これが琵琶湖の東の端に位置する長浜城です。そして南の中心に安土城があり、西のはずれ、京都への出入口に坂本城を営む。そして、これを大きな船で結ぶと、琵琶湖の東から南を巡って京都を結ぶ、日本の戦国史において初めてともいえるシーレーンが出現したともいえますね。

―― 琵琶湖を使ったシーレーンですね。

中村 瀬戸内の水軍を持っている毛利家は、瀬戸内に一種のシーレーンを持っていますが、信長は水軍を持っていなかった。琵琶湖を活用すれば、近江の国で逆らっている人間たちを一瞥しながら京都に出入りできるルートができるわけです。

 戦争のときに大兵力をいかに速く移動させるか。シーレーンという信長の考え方をもし光秀が理解していれば、反逆した際、すぐに京都からシーレーンで坂本城へ戻って、安土城、長浜城を取る。秀吉の兵力がどこへどう接近して...
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