●秀吉自慢の三大城攻め
中村 敵を城に追い込み、大軍で囲ってしまうまでは同じなのですが、豊臣秀吉は織田信長と正反対の戦い方をしています。
―― 秀吉の戦い方というのは、城を囲んでしまうというやり方の発展形なのですね。
中村 そうですね。だんだんと天下人に近くなっていけばいくほど、兵の数も増えていきますから、相手に対して投入できる兵力も増えていくわけです。
秀吉が死ぬまで自慢したと言われる3つの戦いは、「三木の干殺し(三木城)」「鳥取の渇え殺し(鳥取城)」「備中高松城の水攻め」。秀吉は、自分がつくった芸術品のように自慢したと言います。僕は3つとも全部現地に行って見たのですが、三木城はあまり大きくはなかった。いずれにしてもどの戦でも城を囲って、城中に飢餓を起こさせて、頃合いを見計らって使者を入れる。そして、責任を取って主将の座にある人間が切腹すれば、他の人間は助けるという条件を出す。
要するに、ただ城を囲うだけでなく、外交交渉にチャンネルが変わるわけです。戦国の外交はこのあたりから始まるといえそうです。安国寺恵瓊は毛利家の使節として名を成しましたが、当時、坊主は漢字が読めて、人を説教することができるように、そういう勉強をしているから、使者に選ばれやすかった。だから使者に選ばれる僧侶と書いて、「使僧」という言葉があった。「安国寺恵瓊の身分は?」と言われたら、「毛利家の使僧である」と答えるのが正しいのです。
信長がお坊さんが大嫌いだったからか、秀吉は使僧をあんまり使っていませんが、使僧に加えて、軍師が出てくる時代になっていました。敵をある空間に押し込んだ後に外交交渉に持っていく。その際、相手にも侍としての立場を保てるような、後世に武名を残せるような交渉をしてやるのです。
敵の主将を取っ捕まえて斬首するのが信長のやり方ですが、秀吉は最期まで侍として待遇する。一族郎党との別れの酒はこれを使ってくれ、つまみはこれだというように最期のお膳からお酒、つまみまで全部用意します。例えば、高松の水攻めの時は、舟で漕ぎ寄せて、四斗樽とスルメのてんこ盛りを持っていく。城内はみな飢えているから、主将たちは喜んで別れの盃を交わした後、舟で出てきて、見事に腹をかっさばいています。武将としてきちんとした最期を遂げさせてやっているわけですから、このような交渉は一種の戦国外交の1つの極北の姿なのです。
三木城、鳥取城、備中高松城――。毛利家との戦いのなかで、この3つは外交によって勝ち得たものなのです。そして、この3回の外交を担ったのが堀尾吉晴でした。堀尾吉晴は、相手が居直って、破れかぶれで打ち掛かってくるかもしれないような危険な状況で、使者として入城するという役目を粛々と果たした。地味だけれどそうした武勲によって、後に松江をもらうことになります。2015年には松江城が国宝に指定されましたね。
このように、信長と秀吉の敵に対する態度を見ると、殲滅戦から外交交渉へという非常に不思議な比較対照が可能になります。
●秀吉の慧眼、光秀の誤算
―― 兵力もどんどん増えていくし、とてもではないけれども、秀吉の軍団には対抗できないという姿をつくり上げて、柿が熟して落ちるかの如く、天下を手中にしたわけですね。
中村 そういうふうに持っていくのが、秀吉の面白いところです。鳥取城を囲んだ時には、周りで売っている米を高く買い上げて、米価を上げてゆく。軍資金が尽きようとしている城内から米を買いにきても買えない状況をわざわざつくっているのです。需要と供給が物価を決めることを、江戸時代になっても分かっていない武将もけっこういるなか、秀吉はわかっていたのです。
―― 信長の城を囲う戦い方の合理的なところを受け継ぎながら、根本的な思想を少し変えたのが秀吉なのですね。
中村 そうですね。信長は安土城を造ったけれども、結局、しょっちゅう京都に来ていた。つまり、安土城を政治と経済のセンター、いわゆる安土を首都にしようという気はまったくなかったのです。さらに信長は京都を中心にするのではなく、大坂を狙っていました。だから、あれだけ長く石山合戦を繰り広げたわけですね。上人がギブアップした瞬間に、石山本願寺は火事で焼けてしまいますが、あれは明らかに付け火です。そのことによって、広大な更地を用意して、天下の城を造る、府城を造るーー。要するに大坂城を造るというのは、秀吉のアイデアではなく、信長のアイデアを秀吉が実現したのだと思います。
日本列島を統一した暁には、大坂を天下の首府にするというグランドデザインはもうできていた。そうした信長の考えを秀吉はよく知っていて、実現したのではないでしょうか。
―― そういう意味では、信長と光秀と秀吉がそれぞれ果たした役割、特に信長の果たした役割...
(『新撰太閤記』)