●日本とイギリスを脅威と見なしていたハーディング
東 ハーディングは、イギリスとアメリカの間の緊張感の存在を前提とした世界観を持っていました。そのため、日英同盟は、太平洋における脅威と見なしていたのです。当時、アメリカはフィリピンとハワイを領有していたので、日本と大英帝国という、海で国境線を接するような関係にあると、2対1で負けると考えていました。
このような戦略的思考をアメリカが持っていたことを日本が理解していたかは確認できません。しかし、大英帝国の地位は、第一次世界大戦の後かなり落ちました。一応、戦勝国ではありますが、アメリカの参戦がなければ勝利できなかったという事実は大きな影響力を持っていました。私見では、これから急速に成長する新興国であったアメリカと、日米同盟を組むチャンスがあったと思うのです。
―― 日英同盟が廃棄された後の話ですね。
東 そうですね。日本からは、日英同盟を廃棄する代わりに、日米同盟を結ぼうというディールをかけるべきだったと思うのです。
―― 原敬に関して、非常に残念に思うのが、彼が暗殺されたタイミングです。1918年に総理大臣に就任して、ちょうど基盤が固まってきたときでした。摂政設置問題で山県有朋の信任を得るようになり、1920年の総選挙では圧倒的な勝利を収めました。さらに、アメリカのことは本人が一番よく分かっているという状況でした。また、彼は事業家でもあったハーディングと同じように、古河鉱業の実質経営者であり、大阪毎日新聞の売り上げを社長として3倍程度伸ばしました。また、北浜銀行の経営にも関与していました。
東 そうですね。
―― このように、ハーディングと原敬には、多くの共通項があるように思います。もう少し長く総理大臣職を務めていれば、変化していくアメリカに気づいて、どのように対応していくのかと思いますが、その前に亡くなってしまいました。単純なウィルソン流の国際協調主義の時代から、次の時代を主導するアメリカの中身が、まったく別のものに変わってしまったということを、間接情報ではなく、直接自分で読み取れたのではないかと思います。この違いは大きいですね。
東 そうですよね。
―― 加えて、自分で経営していれば、アメリカの企業の素晴らしさを、感覚として理解できますね。この点は、学者や役人などとは、全く異なりますよね。この点は、一つ大きいポイントになるかと思います。原敬の後、次の総裁となった高橋是清は、政党のマネジメントはできませんでした。原敬のようにマネジメントを理解していた人間がいませんでした。アメリカは、ハーディング、クーリッジ、フーヴァーまで含めると10年間にわたって、新しい流れが生まれて変わり続けました。アメリカが最強国になっていく中で手を打てなかったのは、非常にもったいなかったですね。
東 そうです。
●ハーディングが道半ば亡くなったのはアメリカにとって大きな損失
―― 1924年の排日移民法をクーリッジが署名した際にも、おそらく原敬であれば異なる対処をしたでしょうね。
東 そう思いますね。
―― ディール外交という変化した形を理解していますよね。感心したのは、ウィルソン時代のパリ講和会議に、総理大臣を務めていた原敬は行かなかったのです。全権は西園寺公望に委任しました。この会議に出席する必要がないという点がよく分かっていたのですね。このような人が転換点に対応できるかどうかが大きな影響を持ちますね。
東 おっしゃる通りです。原首相は平民宰相なので、ハーディングと経歴なども似ている点があります。
オハイオは北部の州なので特に差別されているわけではありませんでした。しかし、北部の中でもオハイオとエスタブリッシュメントが多い東部とのバランスを考えると、やはり彼もアウトサイダーなのですよね。
―― そうですよね。
東 当時、アウトサイダー政治家は非常に不利だったのです。ウィルソンは、典型的な東部のエスタブリッシュメントの代表です。出身は南部ですが、プリンストン大学で教鞭をとっていたので、東部のエスタブリッシュメントのグループに入っていますよね。
―― その前のセオドア・ルーズベルトもそうですね。
東 セオドア・ルーズベルトは、ニューヨーク生まれハーバード大学卒なので、完全なエスタブリッシュメントです。
―― エスタブリッシュメントですよね。
東 はい。しかもハリマンなどの財閥をバックにつけていました。
―― 私が、ハーディングと原敬が似ていると思うのは、敵を作らないという点ですね。
東 はい、そうですね。
―― 苦労しているために、不用意に敵を作らないという点が、非常に似ていますよね。
東 そうですね。オハイオギャングを自分で作る人なので、人のマネジメントに非常に長けていたので...