●ハーディングの国内政策の光と影
米国第一主義のハーディングによる実践に関しては、国内と国外の分野にわけられます。国内政策としては、極端な減税と自由放任主義経済を導入し、富裕層を徹底的に優遇しました。260億ドル規模の第一次世界大戦の負債を一気に返済し、失業率を半分に削減しました。同時に、1921年には移民割当法に署名し、とくに東欧系、ロシア系のユダヤ移民を追放する動きに出ました。ハーディングが亡くなった後に、副大統領のクーリッジが大統領になりますが、彼は1924年に排日移民法に署名しました。つまり、この排日移民法につながる法案に、ハーディングは署名したのです。
加えて、女性セクハラ問題に悩まされました。実際に、大統領任期中にさまざまな女性と関係を持って、隠し子が多くいるという説が今でも根強く存在しています。そして縁故主義がはびこりました。トランプ大統領のロシアゲート以上に問題となったといわれる「ティーポット事件」では、縁故主義によって当時のハーディングの閣僚が石油会社に優遇政策をとってしまいました。これを暴露され、ハーディングは大きな被害を受けました。このように、一連のスキャンダルに常に悩まされるという政権でした。
外交政策に関しては孤立主義を前面に押し出し、グローバリズムに基づく国際連盟加盟を拒否して、多国間ディール外交でワシントン体制を築き上げました。一方で、過去にとらわれない柔軟な外交方針を取り、もともと敵国だったドイツ、またオーストリア、ハンガリー帝国と単独で国交を回復しました。そして、対独融資を始め、ドイツの負債返済に成功するまで継続しました。ワシントン体制の下では、元同盟国である日本と英国に対して徹底的に圧力をかけ、日英同盟を破壊するまでに至りました。
●ハーディング流ディール外交にうまく対応できなかった日本
そのハーディング流のディール外交を詳しく見てみたいと思います。特に日本に関連する部分に着目していこうと思います。
当時はまだ原敬が首相を務めていました。原首相は英米協調主義を取っており、ハーディングの打ち出したディール外交とうまく付き合うはずでした。原敬首相は暗殺されるのですが、後に首相職に就く加藤友三郎がそれを継承し、割合でいうとア...