●電子書籍よりも、やはり「紙の本」のほうがいい
―― 教養に話を戻すと、まさに本ですね。書籍にどう親しむかも今回のテーマで、まさにこの空間で話すにふさわしいテーマです。
執行 書物を読まないとダメです。今、電子化されたり、いろいろしていますが、やはり根本は書物です。
―― 「紙のもの」ということですか。
執行 活字というか、文字です。電子化は、エネルギー的にいうと「与えられるもの」で、だからダメなのです。電子がダメなのではなく、与えられるのがダメ。一方、活字は向かわないとダメです。この違いが一番大きい。
道具としては、やはり本です。電子書籍で読んでみたことがあるのですが、電子書籍で見ると、送信されるというか、与えられてしまうのです。そうすると、生体内に入ったとき、化学反応が違う。本は自分から行かなければダメで、この違いは文明的にいうと決定的だと思います。
映像をはじめ電子的なメディアも、自分から行かなければならないメディアになると、知性的にできるのだと思います。そういうところでは、「テンミニッツTV」は良いのではないでしょうか。自分から「見よう」と決意しないかぎりわかりませんから。これはすごく重要で、スイッチを押したらついてたというのが、一番悪いです。
―― ご著書(『明朗であれ』)の中に、昇一先生が電子書籍について言われた話もありました。
渡部 父は(電子書籍には)ほとんど親しまなかったのですが、最初のきっかけは、腕の骨を折ったときです。本が読めないので、iPadで読める環境を私が整えて、『ゴルゴ13』などをけっこう読んでいました。しばらく本を読めなかったから、飢えたように1冊の本を、わずかひと晩ぐらいで読んだりもしました。しかし、少し腕が動かせるようになったら本に戻りました。
父の場合は、本を読むことは生きることとほとんど同じで、まったく違う手順で読むことに、あまりピンと来なかった。積極的に向かう感じではありませんでした。ただ、「便利だな」とか「これがあると場所には苦労しないな」とは言っていました。本の場所にずっと苦労してきた人生でもあるので。全否定はまったくしませんでしたが、自分としては、そんなに使っていませんでした。
ただこれからの時代、間違いなく、紙の本より電子書籍になっていく流れは止められないのではないかと思う節もあります。電子書籍は場所を取らないし、読みたい本がすぐに読めますから。読み返す必要がない本だったら、それで読んだり、昔読んだ藤沢周平の小説をまた読みたいとき、本棚へ行って探すよりも(電子書籍で)買って読むといった使い方を私はしています。
父の場合は、電子書籍が出てきたのが晩年の頃で、結局「読んだ気がしないなあ」という感じだったと思います。
―― 昇一先生の本の使い方、活用法で印象深いのが、とにかく本を本棚に並べておくと、それが「自分の頭の外部化」なのだと。本の余白に書いたり、線を引っ張ったりすることで、もう一回読み返したとき「あのとき自分はこんなこと考えてたんだ」と思い出せる。これはすごく印象深くて、そうすることで自分の知的な歴史が、本によって築かれる。そんなことをよくおっしゃっていました。
渡部 父の、本に対する根本的態度は、「本は自分で所有する」ということですね。できるものであれば。そして自分が必要だと思ったら、稀覯本(手に入りにくい珍しい本)にはさすがにしませんが、自分の本だし、赤線を引くのをためらわない。私は父が亡くなったあと本棚を色々と探検するのですけれども、本棚から赤線が引いてありそうな本を探して、「この本はやっぱり赤線があった」などと確認したりしています。
あと仕事をしようとするとき、関連する本を本棚の一角に集めていました。だから父が生前、結局できなかったけれども、次に何をしようとしていたのかは明確にわかります。日本語の本も英文の本も、もうそこに集められていましたから。母はそれ見て、「ああ、かわいそうに。これもやりたかった仕事なんだな」とひと言言ったのですが。
そういうものには、電子書籍はあまりなじみません。もっともこれは、これだけの環境をつくったからできることではあると思うのですが。
●コンプレックスが生まれなければ、自分の努力も生まれない
執行 本は、邪魔になるところがいいんです。邪魔になるというと言葉は悪いですが、つまり「存在感」と言うのでしょうか。それが人間の魂に打ち込むのだと思います。電子書籍は、必要性がなくなったら消せます。これだと魂からも消える。読んで残っていることが大事です。
私がよく社員や知り合いにも言うのが、「読まなくてもいいから買え」です。例えばちょっといいなと思って、本屋で買った本を並べておく。たとえ一生涯読まなくても、買った本を並べて...