●日本的な先祖崇拝とカトリックの融合から生まれるもの
―― そういう死生観を持つというのは本当に大切なことですね。
執行 人間の中心です。私の持論として、死生観を失ったことが今の日本人の一番の弱さだと思っています。死生観を持つことは、人間の生きる中心です。これがないと、死に方が決まらない。死に方が決まらないと、生き方が決まらない。これはもともと人間が持っていた常識です。どう死にたいかが決まると、どう生きるかは自動的に決まる。これがないので、今の日本人は右往左往しているのです。
昔の日本人が一番簡単だったのは、「先祖のとおり死ぬ」ということです。これは立派な死生観です。親が生きたとおり、おじいちゃんが生きたとおり、つまり自分の家の職業があり、親父がしたことをやって死ぬ。これも死生観です。こういう簡単な死生観を、今は誰も持てなくなってしまった。だから死生観をつくるというと、やれ思想を立てなければならないとか、哲学だ、宗教だと、大変です。でも本当は、簡単な話です。
玄一さんが答えられていましたが、昇一先生の死生観の中心になっている「天」という概念。これは著作を読んできて思うのですが、私は「先祖」のことだと思う。
渡部 それは、すごくあると思います。
執行 先祖が、昇一先生の中で、「神」や「天」になっている。だから純粋のカトリックではない。日本的カトリックだと、私は思っています。
渡部 小さい頃、叩かれるときは「俺が先祖に申し訳ない」と言われてましたから(笑)。「お前みたいな……」。
執行 「おまえみたいな不肖の息子を持って」と(笑)。
渡部 そうです(笑)。それで叩かれました。そして、「おまえがこれをこれ以上続けるなら、先祖に申し訳ないから、お前を殺して俺も死ぬ」ぐらいのことを言う。
執行 元々の日本人が持っている一番基本の考え方です。
渡部 怖かったですよ、「やりかねない」と思いましたから。
執行 昔はみんな本当にやりました。真面目な日本人ほど、そうです。
―― 私もよく「おまえを殺して俺も死ぬ」とは言われたものですが。悪さをいろいろしましたから。本当に日本人の特徴です、そういう叱り方は。
執行 私もずいぶん、家を追い出されました。「おまえは執行家の人間じゃねえ。おまえのような奴は、わが家に生まれるわけはない」と言われて、何回も叩き出されました。
――今おっしゃった、「先祖が見ている」「子孫からも恥ずかしくない先祖になれ」というような考え方は、ある意味、日本的な意味での「魂の不滅」ですね。
渡部 そうですね。
執行 日本にはもちろん「ゴッド」はいません。日本では、古い、もう名前もわからない、業績も何もわからない先祖が「神」です。だから日本の神は、「ゴッド」ではない。アメリカ人はそこを誤解して、軍国主義と結びつけてしまいましたが。
名前がわかっているのは、「仏様」です。「仏様」といわれるのは、名前のわかっている範囲。または職業。なんとなくこういう生活していた、とか。それが一切わからなくなると、日本は神棚に上がる。近い先祖が仏壇、遠い先祖は神棚というのが日本の習慣です。
そして昇一先生みたいな、古い日本人のいいところ、克己心を中心にいいものを持っている人は、間違いなく「先祖」になる。これが日本人の一番美しい出方です。私はキリスト教が好きで、洗礼も受けていますが、それでも私の血の中にあるのは、先祖です。
渡部 日本人は基本的に、自分をつくったものを敬う傾向があります。自分をつくったことに関係あるもの、つまり自然や親や先祖です。だいたい、ずっと遡ればみんな兄弟になる、という民族ですから(笑)。やはり先祖など自分をつくったものが大切だし、それを自然に敬うのが日本人の特質だと、父の本を読んでもよくわかります。
執行 日本人の場合、先祖崇拝をしている人が、キリスト教やゴッドも理解できます。そこまで伸びることができる。だから明治になって、日本にキリスト教の神の概念が入ってきたとき、「神を知ろう」と必死になった人は、全員失敗しています。先祖崇拝からゴッドに伸びていった人だけが、成功している。キリスト者で有名な人もそうです。明治の内村鑑三のような日本で一番有名なクリスチャンもはっきり言っています。「日本のキリスト教とは武士道である」と。彼の家は武士だから、「日本のキリスト教とは武士道である」とは、つまりは先祖崇拝のことなのです。
―― 渡部昇一先生はよく、ゲルマン民族にキリスト教を布教したときの話をされていました。そのときの族長が、「わかった。じゃあキリスト教に改宗しよう。ところで俺の祖先はどうなるんだ?」と聞いた。「先祖はキリスト教を信じてないから、地獄落ちです」「ふざけるな。そんな宗教は俺は信...