●廃れたギリシャの神殿と、今も続く日本の神社の対比
―― これはエピソードの1つなのでしょうけれども、よく渡部昇一先生がおっしゃっていたのが、エーゲ海で泳いでいたときに、廃虚があった。それはギリシャ時代の神殿なのだけれど、今は廃虚になっていて、要するに宗教としては途絶えてしまったものだ。一方、日本の海で泳いだときは神社があった。神社も非常に長い歴史があるけれど、こちらはずっとお祀りが続いていて、いまだに信仰の対象になっている。このヨーロッパのあり方と日本のあり方というものは、どうなのだろう、と。
特に渡部昇一先生はキリスト教、カトリックを信仰されていたこともあるので、深いところも含めて、ギリシャの宗教と日本の宗教の比較とか、いろんなことが多分……。
渡部 そうなんです。
執行 でも本当、日本は続いていますからね。
渡部 そう。そんなことをすごく楽しそうに。
執行 それは昇一先生の比較文化論の中枢課題だと思う。だから普通の日本の学者より、一段深いのです。それで、おもしろい。われわれの生活とも密着している。
ただ、私が学生時代からすごく尊敬している増田四郎という日本の歴史学者がいます。最後は一橋大学の学長をやった人で、彼の『ヨーロッパとは何か』(岩波書店)が大好きです。もう一つ、岩波全書で出ていた『西洋中世世界の成立』(岩波書店)があり、これは完全に歴史学者による学問的な本ですが、この本自体の理解を私は、昇一先生の『アングロサクソンと日本人』でやりました。
だから私は、本当の学問を理解させるための力が、「人間力」の中から出てくると思うのです。渡部昇一先生という学者の中に打ちこまれた「人間力」が、ギリシャ的な晴朗をつくっている。ギリシャ的晴朗とは、「晴朗」と日本語に一応、訳されているけれども、「明朗」ということですよね。この「明朗」が、渡部昇一先生と渡部家の中心課題であるように思うのです。それを、『明朗であれ』を読んで、すごく実感しました。
そして、渡部家に貫通している「明朗さ」が、学問を通り越して、日本人の心に訴えてくる。いろいろなものをわからせてくれる。だって私は、この昇一先生の本(『アングロサクソンと日本人』)を読んで、増田四郎の学問書(もともと好きではありましたが)が全部、腹に落ちたわけですから。昇一先生が、腹に落としてくれたとい...