●学問の普遍性と地域ごとの特殊性をどのように考えるべきか
―― そのような時代背景を含めて考えるときに、今後、いわゆる学問や理論がどういう動きをしていくかというところですが、いかがでしょうか。
曽根 これは今までも気がついている部分でもあるし、まだ気がつかなかったところでもあるのですが、物理学や数学には、国境が関係ない。数学の方程式が国によって違うということはあり得ないのです。物理学の実験をイギリスでやろうが、アメリカでやろうが、日本でやろうが、実験室の実験というのは、地球上である限りどこでも不変です。だから、科学論文は国籍関係なしに評価されます。
経済学も実は数学を使っているところもあるし、普遍的な学問として広めているので、あまり国の違いは考えなくて済む学問の1つです。文化人類学や社会学になると、国による差はすごく大きくなります。
また、哲学は本来、普遍的な学問です。普遍的な学問として代表的なのは、ジョン・ロールズの正義論です。しかし、ジョン・ロールズの正義論はアメリカで妥当する議論なので、格差原理というものを世界に広めたらどうなるのかというと、ずいぶん困ってしまうわけです。一番貧しい人を、アメリカの一番貧しい人に置くのか、アフリカの一番貧しい人に置くのかですごく変わってくるし、それから国と国との違いもあります。
よく日本の民族派の人たちや、特に中国が主張しているのは、西洋の原理を主張しているが、それは普遍原理ではなくて西洋原理ではないのかということです。それぞれの国にはそれぞれの国の歴史があるのだから、中国がいう民主主義や自由主義は、アメリカやイギリスがいう自由主義とは違うのだという、一見もっともらしい説があります。これに、意外とみんなコロッと騙されてしまうのです。
その点でいうと、経済学は比較的、数学や物理学に近くて、どこの国でも妥当します。GDPのような単位がありますが、それは国民経済の単位を国で切っているだけであって、そこで使われる原理はどこの国でも妥当するということです。中国だろうと、ロシアだろうと妥当します。国と国との関係は貿易ということで理解すればいいということです。
ただ、ここの難しさを正面切って批判できるかというと、中国の経済の場合、劉鶴という経済学者が西側の経済学を分かっている人で、対話は可能だったわけです。ところが、中国の政治になると、普遍原理、つまりヨーロッパがいう法の支配と中国人がいう法の支配は違うとなります。それは本当なのでしょうか。
つまり、自由という概念は違うかもしれないけれど、人と人とが接するときにはルールが必要でしょう。そのルールは長年のあいだに出来上がったものだから、(例えば)アメリカで出来上がったもの、あるいはイタリアで出来上がったもの、つまりローマ法の世界と慣習法の世界とは違う。それは分かるとしても、だけど法の支配でぶつかったときに裁判に訴えるでしょう。中国人だって裁判に訴えるのではないか。
そういう意味で民主主義という概念の解釈は、中国やロシア、アメリカ、日本ではすごく違うかもしれないけれど、法の支配という共通項はあるでしょう。ここは難しいところです。
私も中国で講義をしましたが、他の人が(講義を)やっている時に後ろのほうの席に行って机の中を見たら、教科書が置いてあり、見たら英語の教科書でした。つまり、彼らだってパブリック・マネジメント、あるいはパブリック・アドミニストレーション、つまり行政学を英語で勉強しているのです。アメリカと中国がそんなに違うわけではありません。
―― 学問としては中国もアメリカも一緒だと。
曽根 はい。そういう意味で経済学は(マルクス・レーニン主義に基づくものは除くと)、ある意味で同じ土俵の上で議論可能です。ところが、今、秩序が安定的でなくなってくるとか、あるいは先ほど言った国際的な荒波の影響を受けるので、学問自体が荒海の中で変化しなければいけないのです。
それこそ今、日本はデフレで勝負していますが、アメリカはインフレで勝負しています。だから、金利を上げるというのは、日本とアメリカでは意味が違うわけです。ただ、金利を上げるという手法自体は正しいのか。例えば、不動産投機が盛んになってきたときに金利を上げるのは有効ですが、供給側、特に労働者、エッセンシャルワーカーたちがコロナ禍で離れて、戻らなかったわけで、そこで人手不足がアメリカで起こっています。それは、金利が上がると戻るのですかということです。政策的に、今起こっている現象と従来の手段は整合しているのかということは吟味しなければいけないところです。
そういう意味で、絶えず荒波を受けていて、持っている政策手段は過去で検証されたも...