●本は、置き場に苦労するほうがいい
渡部 それでも一つ、電子書籍でも読んだほうがいいと思うのは、住宅事情で本棚を置けない場合です。昔より本を読む習慣がないうえに、本棚さえ置かない生活が多くなっていますから。しかし結局、電子書籍を読む人は、普段から読んでいる人が多いです。電子書籍から読書家になった人は、あまり聞きません。聞いたことありますか?
―― 電子書籍の歴史がそこまで長くないのもあるでしょうけれども、今のところは、本が好きな方が、まさに場所に困らないというところで、電子書籍に行くということが多いように思います。
執行 それは玄一さんが優し過ぎます。人のそんな事情まで考える必要はないのですから(笑)。本は、困ることが重要なんです。本が困るのは、私もみんなわかっています。私にしても、家の床が全部抜けてきていますから。でもやはり本が好きで、本を集めて家の床が抜けたというのは、私の誇りです。1人の人間の誇りとは、そういう「物自体の力」によってつくられているのです。そういうものが重要だと言いたい。
だから住宅事情が悪いなら、悪いほうがいいのです。私も今は鉄筋コンクリートで、ある程度大きな家を建て、書棚も整備しましたが、私にとって読書の誇りは、畳一部屋で、地震が来たら死ぬというほど本が積み上がっていた時代です。そうした部屋で「もういつ死んでもいい」という覚悟で読書生活をしていたときが、私の基礎になっていると思います。今のほうがダメです。
そういう人生体験から見ても本は置き場に苦労する、金も苦労する。本を買って食べ物がないという体験。私自身、本のために別のものを犠牲にすることが、若い頃はすごくありました。
渡部 それは父もよく言っていました。
執行 その体験が、本の良さなんです。だから苦労させなきゃダメなのです。だから、今の便利さばかり追求する生活は、どんどん人間から知性を除いてしまう。
知性が抜けるというのは、知性だけで済みません。知性は愛の一つの証だから、愛も抜けていきます。最初の西田幾多郎の話で出たように、愛は知の極点であり、知性と固く結びついています。どちらがどちらを生みだすというのは、イタチごっこになってしまいますが。だから知性が抜けていくことは、愛も抜けていくと気づかないとダメです。
―― 表裏一体なんですね。その意味では、これだけの本があれば、まさにいつ何を買ったとか、一冊一冊が愛ですね。
執行 昇一先生は、そういうことを思い出すたびに「自分の人生を愛せる」のです。そこに繋がっていく。だから物体としてあることが、重要なんです。書物というのは存在そのものです。存在を愛さなければダメなのです。
渡部 私は基本的に、本という存在が好きなんです。
執行 好きではダメです、愛さなければいけません(笑)。
渡部 誰かが本を読んでいると、「何読んでるの?」と必ず聞きたくなるし、本を持っている人を見ると嬉しくなります。それは父の息子ということもあるかもしれません。
●やはり、知性の極まるところは愛である
――今のお話に関連して、『明朗であれ』には2つの印象深いエピソードがあります。1つは孫ができたとき、おばあさんが「ようやくこれでご先祖様につとめが果たせた」と。一方、昇一先生が孫を抱かなかったというお話もありましたが(笑)。もう1つは玄一さんのお宅に昇一先生がいらしたとき、本がたくさんあるのを見て「これは親子ってもんだ」と大変喜ばれた。この2つの話は、「継がれていくもの」という点で通じる気がします。
執行 それは当然です。これらの書籍はもちろん昇一先生が集めたものですが、昔で言えば渡部家のやっぱり「宝物」であり、渡部家のものです。もう昇一先生からも離れています。
渡部 そうですね。
―― だいぶお話も長くなってまいりました。渡部昇一先生の書庫で森羅万象の話をしてきましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。
執行 この書庫で渡部昇一さんの息子さんと、いろいろ喋れるとは今まで想像もしませんでした。この書庫に以前来たときにも驚きましたが、ここでまたこういう対談ができるとは。想像もしないことが起こるのが人生で、面白いのです。私は今70歳ですが、今も毎日毎日想像しないことばかり起こります。面白いですよ。
渡部 面白いですね。
執行 だからこそ人間は、運命に体当たりして、力いっぱい生きていないとダメです。それにしても、ここでしゃべれたのは本当にいい記念になりました。
―― 最後に玄一さんのお立場から、今日のテーマである「教養と明朗な人生」ということについて、昇一先生のお姿をご覧になっていて、昇一先生の明朗さはどこから生まれてきたかということも含めて、お話しいただけますか。
渡部 この本にははっきり書きま...