●高度成長を支えた経営者は経営センスが育ちやすい時代に生きていた
―― どうして日本の企業は、これだけ家畜みたいな人が多くなって、野獣といいますか猛獣みたいな人が出てこなくなったのでしょうか。戦後は、松下幸之助にしても、本田宗一郎にしても、猛獣だらけだった時期があり、やり方は相当荒っぽいけれども、経済的には全体的に上がって、勝ち残る企業がいっぱい出てきました。
しかし、ある段階から、すっかり家畜的な人が増え、企業としても、全体的にガーッと下がっていく。代わりに、今話題になっているファーウェイ創業者兼CEOの任正非氏とか、フォックスコンの創業者、郭台銘(テリー・ゴウ)氏とか、中国や台湾から猛獣系が出てきています。
人間に対する鋭い観察眼をお持ちで、人に会うことが趣味、人を見抜くことに長けた先生から見て、どうしてこんなにも目利きがいなくなったのか、あるいはセンスのある人を見いだすことができなくなったのか、育てられなくなったのかという点について、どのようにお考えでしょうか。
楠木 それは、かなり環境の産物のような気がしています。日本の人たちの経営センスが劣化しているというよりは、経営センスが育ちにくい環境を生きてきた人たちが、今たまたま経営をするような世代に多い。また、日本の高度成長を支えた獰猛な経営者は、猛獣になりやすく、センスが育ちやすいような時代に生きていたというのが、大きいのではないでしょうか。
―― なるほど。
楠木 ですから、とりわけ中国はそうですが、経済成長を始めた後、そうした環境を反映して、人材が出てきやすくなっているというのが、1つには大きいと思います。だから、もし日本が、本当に壊滅的なことになれば、また、焼け跡から猛獣が間違いなく現れるでしょう。ただ、それを待つのはばかばかしい。
―― ばかばかしいですよね。
楠木 焼け跡になってしまうと失われるものが大きすぎますから、生焼けくらいで、そういう人に出てきてもらいたい。
●「日本企業」を主語にして議論するのはやめたほうがいい
楠木 ただ、「日本企業」といってしまうと、集合名詞として、使い勝手が悪いのではないかと、私は最近よく申し上げています。小学校のクラス、例えば、6年2組を見ると、それぞれ個性がある小学生たちといっても、普通の子どもなので、同じような感じなのです。しかし、そこから40年たって、同窓会で会ってみると、それぞれにいろいろな人生があり、ずいぶんバリエーションが広がっていると思うのです。
それと似たことが成熟にもあって、高度成長期までの日本は、ガンガン追い風が吹いていた。そういう状況で、いい会社というのは、巨大帆船のようなイメージで、がたいが大きく、高いマストに大きな帆をかけると、追い風を受けてバーッと進んでいく。そして、みんな同じ方向に進んでいくので、「日本企業」という集合名詞の効き目が、今よりもあったと思うのです。
―― なるほど。
楠木 実際には、1個1個の経営は違うのですが、「日本企業」というと、共通の強みなり弱みなりを持っていたので、「日本的経営」という言い方が、まだ成立していました。
―― まだ意味があったわけですね。
楠木 ただ、それから40年たって、良くも悪くも十分に成熟して、「日本企業」とか「日本的経営」のバリエーションはものすごく広がっています。ですから、「日本企業」といったときに、暗黙のうちにイメージしている対象が、議論する人によってだいぶ違うように思います。
―― 本当はバラバラですからね。
楠木 製造業、加工貿易といっていた頃の日本経済を先導した新日鉄(現・日本製鉄)とか、その後、日本をリードした自動車メーカーとか、電機メーカーとか、それから、サービスに近いほうだと、総合商社とか。そういう当時のメインプレーヤーを念頭に置いて日本企業という人もいれば、メルカリとか、イマジニアなど、その後に出てきたものを日本企業という人もいるわけです。でも、メルカリと日本製鉄はだいぶ違う。これを一緒にして「日本企業」ということには、相当無理があります。
―― そうですね。
楠木 まずは、「日本企業」という集合名詞を主語にして議論するのを、そろそろやめたほうがいいのではないかというのが私の意見なのです。
楠木 だから、結局、主体にしか戦略はないというのが、まず1点。それと、実際問題として、「日本企業」という企業は過去に存在したためしがなく、これからも生まれないので、ないものを考えてもしかたがない。企業とか経営は、あくまでも個別の存在ですから、いいところを見るにしても、悪いところを見るにしても、個を見ていくことが大切だと思います。
面白いのは、一方で、「ダイバーシティの時代だ」「多様性を大切にしよう」「個を大切にしよう」...