●「なにげない幸せ感」を意識する
―― それでは話を少し変えまして、2つ目のポイントとして、人生の「勝ち」と「負け」というテーマでお話をお聞きできればと思います。人生の「勝ち」と「負け」をどう考えるかは、前の講義でお話しいただいた納得感ということにもつながると思うのですが、私が読んでいて印象深かったのが、「幸せの鍵は『なにげなさ』にある」という言葉です。
為末 獲得すればするほど、幸せになるものを追いかけていくのが、人生の前半だと思うのです。私はその典型で、日本ランキングで上にいくとより幸せを感じ、世界ランキングで上にいくと幸せだと思っていました。獲得していくもの、上っていくものは、確かに自分を成長させる上でも大事な仕組みだと思います。
ところが、基本的にこれには終わりがない。そして、最終的には、たった一人に集約される世界なのです。引退して社会に出ても、同じようなところがあります。上に行けば行くほど、どんどん競争は激しくなって、少数の人間に集約されていく。「競争はなくしましょう」と、競争を否定するわけではないのですが、上に行かない限りは幸せになれないというのは、ある意味、多くの人を不幸せにする仕組みになってしまうと思うのです。
実際にそうだろうと思うし、そう考えたほうがよりいいだろうなと思うのは、むさぼらないでも幸せでいられるものは、とても大事だということです。獲得して、拡張していかなくても、それがただあるだけで幸せだと思えるものが、大方自分の人生の軸を決めると思っていて、それがすごく大切なのではないかという意味合いで書いたものです。
―― 「勝たないと幸せじゃないんだ」、あるいは「勝ちがすべてだ」と考えてしまうと、ある意味では、何が幸せなのかが分からなくなる局面が出てきますよね。勝てる・勝てないというのは、先ほどの納得感と一緒ですが、特に勝ち負けに納得感をつなげてしまうと、必然的に難しい局面が出てきそうですね。例えば、アスリートの場合だったら、体力の衰えとともに記録が落ちてきてしまったり、どうしても勝てないライバルがいたら、十分な力はあるのに勝てないということもありますから。
為末 はい。とにかく資本主義社会というのは、この仕組みをとても上手に組み込んでいるので発展している。個人としても競争は避けられないので、がんばっていくのですが、実際に個人の人生としては、競争と幸せを一致させるのはつらい。上のほうに行っても、今度はそれを奪われることへの不安で悩むことになる。そういう仕組みだと思うのです。
だから、このバランスを自分の中で取っていく。なにげない幸せ感と、一方でがんばってよりできるように、よりよくなるようにと、ある方向を目指していく。この2つのバランスをどう取るか。そして、比較的獲得するのが難しいのは、なにげなさのほうだと思うので、こちらを意識するのは大切だという気がしています。
―― なにげない幸せというと、「何だろう」と思っていらっしゃる方もいるかもしれません。本に書かれているのは、例えば「1杯のビールを飲む」とか、そういうお話ですよね。
為末 それが一番分かりやすい例ですね。私の場合は、好きな散歩がそれに当たります。競技時代のときの幸福感はものすごく揺れが激しかった。負けて本当に悔しいと思ったり、勝ったらみんなから称賛されるので、ものすごくハイになる。この揺れ幅に比べると、近所を散歩するのは、「風に吹かれて気持ちいいな」くらいの揺れ幅なのです。だから、最初は「これが、幸せなのか、何なのかもよく分からない」「なんかいいな」くらいの感じなのですけど、そこをしっかりと担保するという感じです。
勝負はそれなりに揺れ幅が激しいと思うのですけど、比較的安定している、振れ幅が小さい行為に触れる中で、その振れ幅よりもちょっと上で推移するようなものを見つけておくというのが大事な気がします。
人によってさまざまだと思うのですが、私はこの世界のほとんどのことは身体的だと思っています。頭の概念で考えることよりは、食べる、お風呂に入る、散歩をするというように、身体に対してなんらかの刺激があることの中で、「なんかいいな」というものが、なにげなさの一つのカギだと思っています。
―― そういうもの、そういう世界を持っておくということですよね。ささやかな幸せ、なにげない幸せを愛でる心というのでしょうか。
為末 そうですね。たぶん長期的に成長するにはこのバランスがよくないと、どこかでプツッと切れる。われわれの世界は、モチベーションをかき立てるようなことをやるので、選手時代ですら、なにげない幸せを持っていない選手は、すごい勢いで競技力を高めて、すごい勢いで引退していく。ジェットコー...