●エリツィンの政治がもたらした混乱とその要因
―― では、続いて深掘り編として、プーチン政治をどう考えていくかについてお話をお伺いしたいと思います。まず前回の導入の講義のところで、プーチンが登場した背景として、ソビエト連邦が崩壊し、エリツィンが(ロシア連邦の初代)大統領となり、そこで混乱したものを立て直したという話でした。そもそもエリツィンの政治とはどういうものだったのでしょうか。
山添 エリツィンがやったことは、ソビエト連邦に対して自分の権力を強めることです。それまでほとんど実体がなかったロシアを率いて、そこの大統領になって、ゴルバチョフから権力を奪いました。そのため、ロシアとウクライナとベラルーシの三カ国を中心にまずソビエト連邦から独立しました。そして、計画経済をやめて、ロシアを市場経済にします。それは投票などを西洋の民主主義モデルにすることなので、これはかなり急激な変化でした。経済的にもショック療法などを使ったので、それまでとはかなり違う社会に急激に移行したのです。それに伴って、多かれ少なかれ15の共和国のどこもそうした混乱があったので、これ自体はエリツィン政治の失敗というわけではないと思います。
―― あまりにもドラスティックすぎたということでしょうか。その後の動きでよくいわれるのが、新興財閥が出てきて、庶民が少し混乱していくという話です。そのあたりはどう理解すればいいのでしょうか。
山添 そこには新興財閥の話もあるのですが、もう一つとして連邦の話があります。ロシアの中にはいくつかの民族共和国と、その他に州や地方などもあります。民族共和国にはかなり大きなアイデンティティの違いがあって、その共和国にはその共和国の憲法と大統領がいます。つまりマトリョーシカのようになっていて、その外側に大きなロシア連邦の憲法と大統領がいるということです。その間の法律体系にかなり矛盾があるまま来てしまったことが、エリツィン時代の混乱の一つの要因です。
もう一つは、(シリーズ内で)「オリガルヒは新興財閥だ」と言いましたが、ソ連時代の国有財産は巨大で、それをわずかな人たちが不公平な富を、ある意味好き放題にといいますか、勝手に独占していました。それはたまたまですが、そういうコネがあったので得てしまったということです。また、彼らの間の勢力争いもかなり無法で、例えばお金を払って殺人ができるというような時代が1990年代にはありました。これでは(国として)きちんとした成長ができない、ビジネスができないという問題意識が当時のプーチンにもあったと思います。
●公平な暮らしになったことがプーチン政治初期の大きな成果
―― そうすると、ロシアの庶民からすると、プーチンが出てきたことで一気に安定したのでしょうか。そもそもプーチンは何をして安定させたのですか。
山添 その前に安定が進んでいたことも、少し付け加えておきたいですね。
1998年に金融危機があった後、それを乗り越えて回復途上にあったところで、プーチンが大統領になりました。安定の全てがプーチン時代の功績ではありません。ただし、具体的に彼は先ほどの連邦と地方、あるいは共和国との関係の法律が均一というか、矛盾がない状態をつくり上げました。独立勢力のようになっていた新興勢力(これは前のツァーリモデルであれば割拠している貴族のこと)を統制することが、プーチン時代には少し進むようになりました。前の時代に比べれば一般人である中産階級の人や庶民にとっては公平なルール、つまり公平に暮らしていけるようになっていることが、プーチン政治の初期の大きな成果ですね。
―― いわゆる新興財閥の中でも、もう亡命してしまった人も含めて、いわゆる粛清されたタイプの人と、ガスプロムなど今も仲良くやっている人たちがいると思います。この政権の中での権力闘争はどうなっているのでしょうか。
山添 オリガルヒ(新興財閥)がたくさんいて、統御できていなかったのがエリツィン政権の時代です。プーチンはその中の一部の人たちと協力して、一番高い地位を得ました。のちに強力すぎる、そして言うことを聞かないオリガルヒを見せしめにして追放します。
ロシアの法律の下では、普通に暮らしていると犯罪者になる可能性は必ずあります。そして、犯罪者だと言った瞬間にその人は捕まえられます。誰を捕まえるか、捕まえないかという、捜査機関の系統を一手に握っているのがプーチンの指揮系統です。この人を追い落としたいと思えば、すぐ捕まえて追い落とすことができます。 それで亡命した人もいるし、亡命しない人もいます。
そのため、「プーチン...