●“Human Co-becoming”の提案
(シリーズ)冒頭にもご紹介しましたが、私は“Human Co-becoming”ということを提案してみてはどうかということを思っています。
西洋哲学の文脈では、人間は“Human Being”(存在者)というように考えられてきた。なぜ人間を存在者として見るのかというと、当然そこには西洋哲学が持っている存在論があるわけです。「存在」としての神を探求することが第一の哲学である。これはもうギリシア以来、ずっと論じられてきているわけです。でも、本当に私たちは「存在」というヨーロッパ的な概念に拘泥しないといけないのか。これが今、問われているのだろうと思います。
では、それに対抗する形で、西洋ではなく東洋哲学を研究している人々は“Human Becoming”ということをいったらどうかと。こういうことが言われるようになりました。私は、それを非常にいい提案だと思います。
私はそこに“co”という言葉を付けて、「共に」といってみました。人間は一人で人間的になるのではなく、他者と共に初めて人間的になっていく。こういう在り方を考えればいいのではないか。そうすると、「存在」に代えて「変容」「生成」「変化」ということを主に置くわけです。これは、人間観の大きな転換になるのではないかと思います。
このHuman becomingは新しい言葉ではあるのですが、実は古い概念の現代的な翻訳でもあると、私自身は思っています。例えば、古代中国の「仁」という言葉があります。「仁」という概念が当時開こうとしていたものを現代的に読み直すとHuman becomingになるのではないのか。そのように思っているわけです。
このように、Human Co-becomingということを近年申し上げていましたところ、なぜか海外の先生方が「それは面白い考え方だ」と言ってくださるようになりました。
ここにあるのは最近出た本ですが、『Gongsheng Across Contexts』というタイトルです。文脈を横断して、“Gongsheng”(中国語で「共生」)する。すなわち文脈を超えて共生する。副題は“A Philosophy of Co-Becoming”で、私が言ったことを採用してくださいました。ともにこうなっていくことを「共生」と捉えたらいいのではないか、と言ってくださったわけで、大変ありがたい試みだと思っています。...