科学的な思考を社会思想と分けて考えることは難しい。その背景には、「ただの偶然」で世界を説明されることの受け入れ難さがあるのかもしれない。科学的な説明を「ただの偶然」として理解することの意義や、生物における多様性創出の原理を考える。(2025年5月15日開催:早稲田大学Life Redesign College〈LRC〉講座より、全9話中第8話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
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●「ただの偶然」を人は受け入れづらい
長谷川 ということで、科学と思想は分かちがたく、車の両輪のように行くときがあります。それは人間がやっていることなので、人間が自分の生活と世界観を完全に抜け出して、科学的に事実を研究しようなんてできないからです。
アリストテレスの時代は目的論で全てを解釈しようとしたわけです。そのときに彼が言っていたのは、なぜ物が上から下に落ちるかというと、「物には本来の所属するべき場所があるのだ。それは地上なのだ。本来、物は全て地上に属するべき場所なので、物はみな地上に向かって落ちるのである」という目的論的な物理を展開したのです。
今、そんなことを信じる人はいないし、物に目的があると思う人もいないでしょう。それはそういう時代ではなくなったからで、人々が普通に見ることからそういうことを連想するという時代ではなくなってしまったのです。
ニュートン力学はそうではなくて、物体間に働く力の法則を解明しました。物が本来所属するところに向かって落ちたいということから技術は生まれなかったけれど、ニュートンの物理学からは技術が生まれる、ということを見ているわけです。
キリスト教の聖書も、創造論とデザイン論が書いてあって、生き物は全て神が創造の日に、それぞれ独立してつくった。全ての生物はその生息環境に適応している。それは神がそのようにデザインしたからだというデザイン論です。(これが)創造論とデザイン論です。
これは、日本とかアジアはそう考えないけれど、そういう説明で納得するところもある。それは、人に固有の心性があり、そうできているからだと思います。目的とか、進歩とか、方向性というものは人々が毎日の生活を送っていく上で、そうしないといけない、「目的も何もない子はダメ」とか、「進歩しない子はダメ」と言われてきているし、そうする努力をすることが人間にとってのいいことだと完全に思っているから、偶然とか、無意味とか、ただの結果というのは受け入れにくいのではないでしょうか。
斎藤成也という元東大(出身)の私の後輩は、(かつて)遺伝学研究所の木村資生先生のところにいたのですが、彼が「全ては偶然なのだ、適応も何も、結局偶然なのだよと言っても誰も受け入れないのだよね」と言っていたのです。たしかに偶然に意味はな...