●「桜の通り抜け」を始めた造幣の父・遠藤勤助
歴史家として、明治維新について、特に外国などとの関係も含めて話してみたいと思います。今日から3回、あるいは4回連続で、このテーマについて触れてみたいと思います。
明治維新と申しますと、幕末、明治初期というのは、ともすれば、政治家、外交官、軍人という人たちのあり方に焦点が当てられますが、やはり近代日本をつくった私たちの先人の中に、技術者や科学者、あるいは、そうした民生家とも言うべき人たちもいたわけで、彼らがつくった明治という新しい時代、ひいては、幕末とはどのようなものだったのかということを、3回くらいに分けて少し考えてみたいのです。
最初に取り上げたい人は、遠藤謹助という人です。遠藤謹助という人物は知らなくても、大阪の市民の人たちだけではなく、日本人の多くは、大阪にある造幣局の花見、「桜の通り抜け」という行事を知っている人が多いと思います。それに関連した話です。
大阪の北区の天満に、昔の大蔵省造幣局であり、今、独立行政法人造幣局の本部が置かれて、本局があります。そこは、ちょうど旧淀川沿いの景勝の地として江戸時代から知られていまして、特に春は桜見物、それから夏は涼み船や夕涼み、秋は月見といった形で、昔の浪速、今の大阪の市民たちの憩いとにぎわいの場所になっているのです。特に、先ほども触れましたが、春の桜は名所として知られていまして、対岸は「桜ノ宮」と呼ばれるほど、桜が咲き乱れていたと私は聞いたことがあります。この造幣局の桜の通り抜けを始めた人物に関係する話です。
この通り抜けを始めたのが、明治16(1883)年で、当時の造幣局長の遠藤謹助の発議によるものでした。もともと造幣局の敷地内でしたから、局員たちが桜見物を楽しんでいました。今ならば、市民たちが「自分たちにも見せろ」と言うのでしょうが、当時はお上が偉かったので、そういうことも市民たちは公然とは言わなかったようです。しかし、遠藤は、「局員だけの花見ではもったいない」「市民とともに楽しもうではないか」という、まことにあっぱれな提案によって、構内の桜並木を一般の大阪市民に開放したという、大変素晴らしいことに由来するものなのです。
ところで、この遠藤謹助が事実上つくった大阪の造幣局は、日本の近代化の象徴です。資本主義の発展にとって必要なのは金銀銅貨であり...