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北垣国道―京都の水利に尽力した「琵琶湖疏水の父」

技術と民生から見た明治維新(4)北垣国道

山内昌之
東京大学名誉教授
情報・テキスト
琵琶湖疏水
画像提供:京都府水道局
本編シリーズ講話第4回は、琵琶湖疏水の父・北垣国道。いまで言えば新幹線や青函トンネルの開通にも比すべき琵琶湖疏水の大事業を成し遂げ、その後も北海道の民生の長期的な安定と繁栄のために尽力した彼の功績を振り返る。
時間:11:23
収録日:2014/02/26
追加日:2014/03/20
タグ:
≪全文≫

●南禅寺と水路閣から日本の近代を考える


 皆さん、こんにちは。

 皆さんの中には、京都の南禅寺を訪れた方も多いかと思います。特に、朝の早い南禅寺の境内は、まことに不思議な霊気が漂っていまして、独特な雰囲気を醸し出しています。

 さて、南禅寺を正面に見たときに、有名な楼門(ろうもん)があります。これは歌舞伎の有名な『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の中で、石川五右衛門が、「絶景かな絶景かな…」と名科白を叫んだ場所としても知られていますが、その門の右手を見ますと、映画のロケなどでもよく目にする水路閣があります。

 この水路閣と南禅寺の組み合わせというのは、まことに面白いものがあるのですが、さて、こうした日本の伝統的な社寺と西洋の影響を受けた建築物が、同じ境内に共存しているというのは、なぜなのでしょうか。このあたりに、日本の近代というものを考える、また別の手がかりがあるかと思います。


●元勤皇の志士・北垣国道率いる水路閣建設という大事業


 この南禅寺を流れている水路閣は、もともとは琵琶湖疏水の水道橋、すなわち、琵琶湖から京都まで引いた疏水の支線です。つまり、琵琶湖の水をいくつもの山をうがったトンネル、隧道を通して琵琶湖から水を持ってきたのですが、その支線が水路閣だったのです。

 この水路閣の建設は、明治新政府の下で行われましたけれども、この大建築と大工事を現在風に言うならば、北海道新幹線や青函トンネル、東海道新幹線などの建設にも匹敵する、時代における最先端の事業でした。

 この掘削をした人物が、北垣国道という京都知事でした。北垣は、もともと但馬国の出身でしたが、幕末に勤皇の志士として、「生野銀山の変」という生野銀山で公家を盛り立てて倒幕に動いたことでも知られています。

 彼は、幕末から明治にかけまして、幕府を倒す戦争である戊辰の役で、特に越後の方の北越戦線にも転戦した人で知られていますが、明治になってからは、地方の知事として、さまざまな手腕と力量を発揮していきます。


●北垣・田辺コンビがつくり上げた誇るべき明治の遺産-琵琶湖疏水


 中でも、彼は、京都知事になった時に、これは豊臣秀吉以来か、ひょっとしたらもっとそれ以前の人の夢であった「琵琶湖の水を京都に引こう」という壮大な計画を実現しようとします。

 京都は、明治に入って、東京に奠都(てんと)し、その首都の地位を奪われたこともありまして、少し活気を失い、やや沈滞気味でした。その京都を活性化し、さらに人々の生活を潤す、すなわち民生の安定化が必要であったのです。

 もともと京都は、意外と水の便が不便な所で、飲料水等々においても大変不便をかこつ場所でした。そこで北垣は、明治18(1885)年の着工から4年8カ月かけて、大工事に着手します。これが、琵琶湖疏水だったのです。

 この琵琶湖疏水は、灌漑、上水道、水運、そして水車による動力などのさまざまな技術をもたらし、それを総合化した、まさに日本の新しき技術の粋を活かした大変意欲的な工事でした。

 そして、東京大学工学部の前身である工部大学校の卒業生で、田辺朔郎という人物がいましたが、北垣国道がこの田辺朔郎を呼ぶことによって実現した絶妙なコンビがつくり上げた、私たちが今でも誇るべき明治の遺産なのです。


●今も残る蹴上水力発電所は田辺の技術と北垣のリーダーシップの賜物


 特にこの琵琶湖疏水によってもたらされた水を使い、京都の都ホテルのすぐそばにあり、今でも残っている、あの蹴上(けあげ)の水力発電所をつくり、さらに京都で、やはり北垣たちの努力によってつくられた、京都と伏見を結ぶ日本で最初の路面電車である京都電気鉄道の動力源としても琵琶湖の水を使ったのです。

 もともとの琵琶湖疏水は、本来は琵琶湖の水を引っ張ってきて、今のちょうど大津の近くの浜大津から、この水を取水口に入れ、そこから京都まで届けるというものでした。しかし、そう口で言うのは簡単ですが、一番困難なのは、その間に山が横たわっていたことです。明治になって間もない頃の技術でこの山をうがつということが大変だったわけで、それを通したこともさることながら、コンピューターも電子計算機もない時代に、そろばんや手による計算などによって、琵琶湖の水の高さと京都の蹴上との落差、この間をわずか4メートルの高低差で設計して、水運の道である水路をつくり出したのです。

 この4メートルの差がある中で、水が途切れないように、スイスイと京都市内まで入っていくというのは、これは大変な技術であり、計算でした。しかも、この浜大津から蹴上までは、全長で12キロもありましたから、この12キロの水路を、水が止まらずにすっと南禅寺の近くまで届けたということです。

 ここがこの田辺朔郎の技術...
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