●「歴史にifはない」と言われるけれど
皆さん、こんにちは。前回は、「長州ファイブ」と呼ばれる幕末の長州藩の若き侍たちがイギリスに渡り、主にロンドンを中心に活動した話にふれました。その中で日本の「造幣の父」とも言うべき遠藤謹助を取り上げましたが、一緒に出かけた他の人たちはどうなったのでしょうか。今日は、その一人、山尾庸三について話してみたいと思います。
歴史を見るときに、「もし・・・でなかったら、どうだったか」と考えることは、皆さんにもしばしばあると思います。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界史は変わったかもしれない」というパスカルの有名な言葉を思い浮かべたり、さまざまな仮定をしたくなることがあります。
H・G・ウェルズのタイムマシン、時間航空機は人類の夢です。これに乗って世界を遡及してみたい、歴史の違うあり方を見てみたい。そういう気持ちに襲われる人も少なくないと思います。
●もし「長州ファイブ」が渡英していなければ、明治の日本は?
私なども、職業柄本当はよくないのですが、やはりそういう仮定をしてみたくなることはあります。古代の白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍にもし日本が勝利を収めていたら、東アジアの秩序はどうなっていたか。あるいは第二次大戦中のミッドウェー海戦において、もし帝国海軍の連合艦隊がアメリカ航空艦隊の索敵に成功し、先にその場所を見つけていたらどうなっていたか。さまざまな形で歴史は変わったかと思われます。
しかしながら、そうした仮定には実際に根拠がある場合もあります。例えば、クレオパトラの鼻であれば、現代の整形手術で低くすることができますので、仮定として意味を持たないかもしれません。しかし、幕末の「長州ファイブ」と呼ばれる若者たちが、もしイギリスに行っていなかったとすれば、その後の日本の明治という時代のあり方は、ずいぶん変わっていたに違いありません。
このように、歴史においては、因果関係として十分に成り立つ仮定があるのです。ただ、われわれは歴史上の既成事実について、当たり前のものとしてとらえることに慣れているせいか、そのことが持つ大事な意味について、ともすれば忘れがちになることもあります。
●ロンドンで下関戦争の報に接する。帰る者と残る者
「長州ファイブ」の若者たちは、元治元年(1864年)、ロンドンの地において、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ4ヵ国の連合艦隊が下関を皮切りに、彼らの祖国で主家毛利家を奉ずる長州藩を攻撃するとの報に接し、愕然としました。そこで、彼らは相談し、考え抜いた結果、井上馨と伊藤博文の二人が帰国することになりました。そして残った三人は、政治や外交の道は歩まずに、英国での学業を続けることにより、新しい国づくりに貢献したいと考えたわけです。
その一人に山尾庸三という人物がいます。彼は、スコットランドのグラスゴーの造船所で働きながら、アンダーソンカレッジで工学、エンジニアリングを勉強しました。他方、井上勝は、ロンドン大学などで鉱山と鉄道技術を学びました。そして、遠藤謹助が造幣技術を習得したということは、前回に触れた通りです。
●「工学の父」、山尾庸三は尊王攘夷派の若者だった
特に山尾庸三は、なかなか興味深い人物で、後に日本の「工学の父」になるのですから、近代化の粋のような人間でした。しかし、そうした人物も若い頃には尊王攘夷の志士として鳴らし、品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館に対し、竣工間近に焼き討ちをかけるという乱暴なこともしています。およそ筋金入りの尊王攘夷派だったわけで、今で言うと過激派やテロリストに近い人物でした。それがイギリスに渡って「自分たちの考えでは、とても世界に対応していけない」と思い立って、今度は一意専心、近代化と西洋の先端技術の摂取に努めたというのが、大変おもしろいところです。
つまり、現在われわれが政治学で使う言葉を当てはめれば、これは「転向(コンバート)」したわけです。「プラグマティズム」という言葉も思い出します。実際の事態に直面して、用のあるところは採用し、用がないものは捨て、実用に供する。こういう考え方や生き方がプラグマティズムです。
●大英帝国の繁栄から持ち帰るべきものは?
大英帝国の繁栄のまっただ中に飛び込んでいった彼らの驚きというのは、現在の私たちが初めてヨーロッパを訪れるときのそれとはまったく違っていたでしょう。当時のロンドンにおいて何よりも注目すべきは、まずテムズ川の堅牢な橋やマンチェスターの工場、そしてロンドンを中心に広がる鉄道網でした。さらに、ロンバルディア街を中心とした金融システムの広がりや、社会生活の基盤となるスターリング・ポンドという通貨の流通もありました。
イギリスに留まった三人の若者は、それらの先端技術...