●琵琶湖疏水建設に見る驚くべき明治人のスケール
皆さん、こんにちは。前回は、北垣国道について触れました。北垣が着手し、そして開削、設計、その開通を命じた琵琶湖疏水や北海道の各鉄道。彼は、さまざまな土木事業に大きな影響を与えましたが、それを実際に前線で担ったのが、田辺朔郎であるということは、既に触れたとおりであります。
とにかく驚きますのは、何と言ってもこの明治人のスケールの大きさです。大津市の三井寺の近くから、大体におきまして、長等山を掘り抜いてくる。その第1トンネルだけで、2436メートルあったと言います。この2436メートルを、当時はまだパワーショベルや重機のようなものがない時代に、ほとんど人力を中心に開削事業をしたのですから、大変な努力も必要でした。
しかし、同時にそれが間違いなくきちんと大津と京都との間をつないだということは、驚くべきことです。前回申し上げましたように、浜大津から京都の蹴上までの高低差がわずか4メートルの中に琵琶湖疏水をつくっていったという点にも大変な驚きを感じるのです。
そこで、前回の話に引き続きまして、今日はその田辺朔郎についてお話ししてみたいと思うのです。
●画期的運搬方法-インクライン
前回もお話ししましたけれども、私は自分が特に好きなせいか強調したいのですが、京都の蹴上や岡崎のあたり、南禅寺を中心とした地域は本当に静かで、あちらこちらに煉瓦造やアーチの構造が残っています。中でも代表的なのはもちろん水路閣ですが、この水路閣を出て、下りまして南禅寺を出て、蹴上の方に坂を上がっていくと、すぐにレールがあることに気がつく人も多いかと思います。私も高校生の時に初めて京都を訪れ、その時に、このレールとここにある遺跡を見たくて、出かけて行きました。
そこで私も皆さんも、今ではさびついた不思議な台車を見出す方も多いかと思います。これが、いわゆるインクラインの名残です。インクラインとは、舟のためにつくられた傾斜鉄道のことです。
琵琶湖から通じた水路、水運のためのトンネルが蹴上の上の方に来ると、そこから今度は南禅寺の正門あたりまで、30メートル以上という大変な高低差が生じます。ここにどうやってその水を通すかという大問題があったのです。
また、琵琶湖からせっかく運んで来たのは水だけではなく、舟を使って物も運ん...