●「人間大事」の哲学は、お客さまも社員も同様に敬う
―― 松下幸之助シリーズの最後になるかもしれないこの本『ひとことの力:松下幸之助の言葉』(東洋経済新報社)を読ませていただいて、大変感銘を受けました。特に「一人も解雇するな、1円も給料を下げるな」というあたりからお話を聞かせていただければと思います。
江口 松下幸之助という人は、経営をやっていくときに、商売のための商売や経営のための経営ではなく、人間のための商売、人間のための経営というか、あの人の根底に常に流れている“人間大事”、つまり「人間とは非常に素晴らしいものであり、その本質はダイヤモンドだ」という意識が強かったのです。そのような人間観があります。
それと、もう一つ、松下幸之助さんは非常に苦労したということがあります。大正7年に松下電器製作所を始めましたが、言ってみれば中小零細企業ですから、吹けば飛ぶような小さな会社で、人を募集しても誰も来ない。もちろん優秀な人も来ないという状態でした。しかし、それでも人手が必要だという状況の中で、何とか人を採っていくのです。時には優秀ではない人も採用しました。しかし、いかがなものかと思えるような人たちも、松下幸之助さんと松下電器製作所で仕事をしていると、だんだん力をつけていくのです。
そして、それを「わしが教育しているから当たり前だ」とか「仕事をしているのだから当たり前だ」という考え方ではなく、「なぜ人間はどんどん成長していくのか」「なぜどんどん仕事ができるようになるのか」「人手が要るからと、能力がないのではないかと思いながらも採用した人も、能力を発揮するようになるのはすごい」という考え方を持ってやっていったのです。それが、「人間は誰もが大事だ」「素晴らしい存在だ」という意識につながるのです。
ですから、松下幸之助さんと話をすると、“人間から出発する”ということが根底に流れている話が多いのです。例えば、“いいものを安くたくさん”という話がありますが、それは、いいものを安くたくさんつくれば「もうかるから」という、商売や経営の次元で考えたことではなく、“いいもの”の背景にあるのは、「人間というものは素晴らしい。その素晴らしい存在にふさわしいいいものをつくらなければ、素晴らしい本質を持った人間に対して失礼だ」という考え方なのです。“安く”も、「そんな素晴らしい人間に対して暴利をむさぼるのではなく、できるだけ安価にし、しかし利益は確保できる努力をしなければいけない」と考えていました。また、“たくさん”についても、「素晴らしい人間に対して、不足して困らせるようなことはしてはいけない」という考え方でした。ですから、素晴らしい本質を持った人間であるお客さまに対して、「“いいもの”“安いもの”“たくさん”というのは、礼儀でしょう」という考え方だったのです。常に「人間大事」、「お客さま大事」を考え、それがまた「社員大事」にもつながっていくのです。
●「一人も解雇するな、1円も給料を下げるな」
江口 これは有名な話ですが、昭和4(1929)年に世界恐慌があり、浜口雄幸内閣の時に日本もそれに巻き込まれました。
―― 金解禁ですね。
江口 そうです。それで日本全体が大変な不況になります。日本人の経営者は非常に真面目ですから、いろいろと一生懸命努力して何とか経営を維持していこうと、経営の合理化などを考えるのですが、それでも追い付かず、大阪や東京の町工場や会社で人員整理をせざるを得ない状況でした。固定費削減のためには、一番先に人件費を削減することになるからです。しかし、それも追い付かなくなると、今度は解雇です。ですから、松下電器製作所の周囲の会社も、倒産するか社員を解雇するか、という状態でした。
当時の松下電器製作所では、後に三洋電機をつくった井植歳男さんが専務格で、松下幸之助さんの考え方をよく知っていました。松下電器製作所も一生懸命努力はしていましたが、どうしても人員整理までしなければならないというところまで来てしまい、解雇する人の名簿を井植さんが作成しました。
松下幸之助さんは元来、体が弱く、その時は西宮の自宅で布団に横たわって養生していましたが、そこに井植さんが飛び込んでいき、「大将、ついにうちも解雇しなければなりませんので、その人たちの名簿を持ってきました」と言います。
そうすると、松下幸之助さんは布団の上に正座し、その名簿にしばし目を通し、涙を流すのです。「自分は松下電器を大きくして世の中のために役立とうと思い、人を一人一人大事に採用してきた。そういう人たちが将来の松下電器を大きくして日本に貢献してくれると思い、人を採用してきた。好況のときにそのような思いで人を採り、不況になったら人員整理をするというのは、会社のためにもならな...
(江口克彦著、東洋経済新報社)