●この塾には常任の教授はいない 1980年4月1日 入塾式
この塾は常任の教授がおるわけではありません。塾生が自ら自問し、自答し、そして自分を磨いていく。自修自得である。自問自答である。そうして立派な人間になってもらうということであります。
塾には塾の方針があって、その方針に沿ってやってもらうことはもちろんでありますけれど、本来は手をとって教えるわけではない。「こういうことを君は考えたらどうか」と、そんな問題を与えられて自分で研究する。自分で答えを出す。その答えに対して、たくさんのいろいろな講師がおりますから、その講師にお願いして、自分で自問自答して、「それはこうしたら良い」ということを講師の方々に批判してもらう。そうして勉強する。
●師を持たずしてその道に達する極意~宮本武蔵と刀鍛冶~
しかし、だいたいの基本方針は、自らをつくれ、人に教えてもらってやるのではいかん、ということです。
宮本武蔵には先生はいません。彼は剣聖といわれた。剣聖といわれた宮本武蔵は、自分で稽古したり、何かやったのでしょう。そしてついに剣聖になった。だから、政経塾には常勤の講師はなし。教授はいない。皆、塾生は自修自得せよ、自修自得をもって皆、宮本武蔵になれ、ということです。僕はそう思って、やがて政治の宮本武蔵が何人か生まれるだろうと、そういうつもりでやっています。
教えてもらってやるということでは駄目です。教わらずしてやるという人でないと。ということで、どこまでも自ら発見しないといけない。ということを指導精神にしているのです。だから師を持たずしてその道に達するという極意を会得しなければならない。自修自得ですね。自修自得できないものは落伍するということになります。
それで、まあ厳しいと言えば厳しい。無責任と言えば無責任。けれどもそれよりしようがない。教えられて教えられた通りにやるのだったら、範囲が知れています。
昔、ある厳しい先生がいたそうです。刀をつくるのが仕事で、弟子をとったそうです。ところが3年やっても何一つ教えてくれない。庭を掃いたり掃除をしたりするだけで、とんちんかんと刀を鍛錬する作業を教えてくれない。その割にがみがみ言って難しい。
違う先生は、同じ刀鍛冶であっても、これは克明に教えてくれる。そこで育った人間は皆、一人前の刀鍛冶になる。
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