●中国古典思想の根幹をなす「天命」と「性」
中国古典のポイントに、江戸時代、小学校一年生ほどの子どもに教えた『小学』という書物があります。それを開くと、巻頭には「天の命ずるこれを性という(天命之謂性)」という一文があります。性というのは人間性の性、理性の性ですが、こういった五文字が出てくるのです。巻頭の一文ということは、真っ先に子どもに教えなければいけないということでしょう。これはまた『中庸』という、四書の中の一つの巻頭の文でもありました。
これは、「ひとつ君、天に代わって人間として生まれて、私の意思である健全な社会と、愉快な人生を皆につくってやってほしい」というのが天命で、生まれてくるときに、「しかし、人間は厄介だよ、したがって、これを持っていきなさい」といって授かるのが性だということです。
●欲望を是認し、理性でコントロールすることを説いた中国古典思想
『易経』などでは、これを「性命」と言って、天性と生命の両方から成り立っているのが人間であるということです。したがって、「人間は天性、天分を本当に大切にしなければいけない」ということをここで訴えているのです。その話は後に譲るとして、この性は理性を表しています。理性は何のために必要かと言いますと、猛禽・獣と人間を分かつ最大の区分点が理性だということです。
人間も動物です。さらに言えば、中国古典思想は欲望を是認しています。欲望は否定してはいけない。なぜかと言えば、意欲という、いい欲望もあるではないか。さらに世の中を推進して、より良くしていくということから言えば、欲望を是認した方がいいのです。
しかし、是認するということになると、取り扱いが非常に難しい。仏教のように、欲望は禁ずると言ってしまった方が簡単なのですが、これを認めるにはどうするか。
私はこれをよく自動車に例えてお話をします。欲望は、自動車で言えばアクセルです。アクセルだけの車に乗りたいですか? 乗りたくないですね。そうすると、利きのいいブレーキが必要になります。この利きのいいブレーキが理性なのです。要するに、欲望というアクセルを踏んで、理性というブレーキで速度をコントロールするのが、より良い人生なのです。
●古典の意義-理性の最重要要素である精神、意識を磨く
理性は、精神、意識、霊魂という三つからできているとされています。中国古典思想では、精神や意識を磨くのは古典であり、古典の意義はそこにあると主張しています。ちなみに、霊魂は、美しいものを見たり、聞いたり、触れたりすることによって、磨かれるとされています。
理性の中で一番重要な精神や意識を磨くことこそ、人間性を発揚する基本であり、人間の証であり、そこを磨くためにも古典を読むことが非常に重要だと言われています。ぜひ古典に親しんでいただくといいと思います。
●感謝したい日本の翻訳技術「書き下し文」
さらに、私がいつも感心することがあります。私が読んでいる漢文のテキストは、上に何の記号もない白文があって、下は書き下し文という日本語になっています。日本人はすごいもので、何の記号もない漢文を、句読点や返り点などで全て読み方を変えて、日本語にしているのです。
これがなかったらとても読みづらいのです。中国語から勉強しないと駄目だったと思うのですが、そういう意味で、日本の伝統や歴史がつくってくれた翻訳の技術は、ものすごいものがあります。上の漢文の字は全部網羅されていて、しかし見事に日本語になっています。この翻訳はすごいものです。古典をお読みになるときには、そういう先人のご苦労を感謝しつつ読まれた方がいいと思っています。
●アジアの時代にあって思う「母国語で古典が読める」ことの素晴らしさ
私が、「18~19世紀はヨーロッパの時代で、20世紀はアメリカの時代だとすると、21世紀は何の時代ですか」と聞くと、「アジアの時代だ」と、皆さんおっしゃいます。「いよいよ待ちに待ったわれわれの地域の時代が来た。アジアはこぞって手を取り合ってこの時代を謳歌しようではないか」というわけです。ところが、今、アジアはごたごたしています。
私は東洋思想にご厄介になっているわけですから、何とかしたいと思いまして、時間があればアジア各地に出かけたり、向こうからも来ていただいたりして、アジアの人たちと親交を重ねています。
そこで、非常に当たり前だと思っていたことが、大変なことだと分かったことがありました。アジアの各国の人たちが古典を読もうと思うと、まず言語を習得しなければ駄目だということです。つまり、母国語になっている古典は、とても少ないのです。日本では書店に行けば、2000~4000年前の中国古典から欧米の古典まで、全部を母国語で読めるのです。...