●資本主義と道徳の問題を考えたアダム・スミス
皆さん、こんにちは。今日は、18世紀のユーラシア大陸の西、イギリス・ヨーロッパの思想において、どういう問いが立てられてきたのかを考えたいと思います。
前回、清朝考証学の泰斗と言われる戴震(たいしん)のお話をしましたが、それは決して孤立した考え方ではなく、同時代的なグローバル化時代の思想であると申し上げたかと思います。
戴震とほとんど同い年の思想家に、アダム・スミスがいます。アダム・スミスに関しては、最近、注目も集まってきて、新たな訳書や研究書が出たりしているので、ご存じの方々も多いかと思いますが、今アダム・スミスを読むときに注目されているところは何でしょうか。
アダム・スミスは、「神の見えざる手」に代表される経済理論、特に市場経済の擁護者、あるいは、自由主義市場経済の擁護者として理解される面があります。
しかしその一方で、同時に彼は『道徳感情論』という書物の著者でした。つまり、単なる市場経済の擁護者、市場経済を基礎付ける論客ではなく、資本主義と道徳の問題を考えた思想家として、いま読み直されているのです。
●「共感」の構造に着目したアダム・スミスの道徳論
今日は『道徳感情論』の新しい翻訳を持ってきました。最初の部分を少しだけ読ませていただきます。「共感について」です。
「人間というものをどれほど利己的と見なすとしても、なおその生まれ持った性質の中には、他の人のことを心にかけずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。他人の不幸を目にしたり、状況を生々しく聞き知ったりしたときに感じる憐憫や同情も、同じ種類のものである。他人が悲しんでいるとこちらもつい悲しくなるのは、実に当たり前のことだから、例を挙げて説明するまでもあるまい。
悲しみや人間に生来備わっている他の情念同様、決して気高い人や情け深い人だけが抱くものではない。こうした人たちは、とりわけするどく感じ取るのかもしれないが、社会の掟をことごとく犯すような極悪人であっても、悲しみとまったく無縁ということはない」
これが『道徳感情論』の冒頭です。
アダム・スミスがここでしようとしたことは、「共感」という感情によって道徳を基礎付ける試みです。これは、前回お話ししたように、神、バイブル、経書、聖典といった超越的な何かに規範の源泉を求めるのではなく、裸の人間に規範の根拠を求めていく動きの一環なのです。
では、人間のどこに規範を求めていくのか。もちろん、多くの場合は、なるべく身体的なものではなく、精神的なものに規範を求めていく。それがそれまでの常套手段だったのだろうと思います。しかし、18世紀になると、それではどうも規範が成立をしない。それが社会的な広がりをもって複数の人々を巻き込んでいくためには、どこかで身体的なものを入れていかなければ、規範という意味がないのではないのか。おそらくこういう考え方があったのだろうと思います。
アダム・スミスは、いま読んだように、「共感」を軸にして道徳の基礎付けをしていきます。もちろん、皆さんは、本当に共感で道徳の基礎付けができるのだろうかと、すぐにお感じになるかと思います。人間は、共感しない場合もありますし、あるいは、たとえ共感しても、善を行わない場合も当然あるからです。
前回、『孟子』の一説を披露しました。その中に、井戸に子どもが落ちようとしていると、人はハッと思って駆け寄って助けるだろう、という話がありました。しかし、人間とは非常に残酷なものですから、井戸に落ちようとしている子どもを見殺しにすることは、当然あり得ます。あるいは、ひどい人になれば、後ろから押して井戸に落としてしまうような人も、当然存在するわけです。
そういうことを、アダム・スミスが知らないわけがない。もちろん、分かっています。分かった上で、たとえそうだとしても、人間の心の中には、「共感」という働き、これ自体は否定できないものとしてあるだろう。よって、いろいろうまくいかないことは多々あるにしても、その手前にある共感という構造を利用することによって、共感が現れたときに道徳を基礎付ける以外にないのではないかと考えたのです。
●ヒュームは、共感を統合する社会制度を問うた
同じようなことを、アダム・スミスの友人であり、先輩でもあるデビッド・ヒュームも語っています。
ここでは、ジル・ドゥルーズのヒューム論をベースにお話をしたいと思っているのですが、ドゥルーズの解釈を通じてヒュームを読むと、このようになります。
「自然の中に矛盾が露呈しているのだ。社会の問題は、エゴイズ...