●18世紀・民主主義の成立と中国の近代
18世紀の話をもう少し進めたいと思います。
18世紀は、宗教社会学者のロバート・ベラーも非常に重要視していた時代です。ベラーの示唆によると、特にチャールズ・テイラー(カナダの政治哲学者)のことを念頭に置きながら発言しているのですが、それ以前の社会とは決定的に違うことが生じたと考えています。それは、「三つの領域が埋め込まれた状態から解放された」と言っているのです。その領域とは、「経済」、「公共圏」、それから「民主主義」の三つです。
今の私たちにはやや想像が難しいかもしれませんが、経済がそれまでの宗教を中心とする社会システムから一つの独立した領域になっていったことは画期的だったわけです。
ですから、アダム・スミスが市場経済論を書いたのは、経済学者として経済学をいろいろと勉強して書いたというより、当時勃興しつつあった「経済」という新しい領域を記述してみたということでもあったのだろうと思います。それは、同時に「公共圏」の成立でもあったと言うのです。
どういうことかと言うと、公共圏とは、人々が自由にオピニオン(意見)を交換し合う空間ですから、具体的には、新聞などのメディアの成立がなければ公共圏はうまくいかないということなのでしょう。出版産業が自立して、新聞などのメディアが印刷されて流通することが、公共圏を支えていくのだろうと言うのです。経済と公共圏の二つがあって初めて「民主主義」、つまり神や王ではなく、“人々”に主権があるという考え方が成立してきます。
これが18世紀の意味なのではないか。19世紀はそれをより確かなものにしていったのではないかと考えられているわけです。
そのことをもう一度中国に戻って考えていくと、中国の場合、近代をどこに設定していくのかという問題には、なかなか難しい議論があります。
いつかお話しできればと思いますが、京都の東洋史学をつくった内藤湖南、あるいは、その弟子の宮﨑市定は、「唐宋変革論」を唱えました。つまり、宋から中国的な近代が始まっていくという考え方です。
確かに、経済的にも、宋は爆発的に経済力が高まっていきます。さまざまな貿易もありましたし、指標が示すところでは中国経済がそこで一気に浮上していく時期でもありました。
出版、流通に関しても、革新的な技術が開発されました。現在、私たちが「宋版」と呼んでいるものがあります。宋の時代に出版技術が非常に高くなったので、それが流通して、日本でも宋版という形で中国の書物を手にすることができました。
ですから、経済、公共圏は大体成立していたのです。では、三番目の民主主義、人民主権はどうだったのか。これはなかなか議論を呼ぶところです。
しかし、民主主義をどう考えるかにもよりますが、中国には、孟子に代表される民本思想、つまり、民衆の中に権力の源泉がある、レジティマシーは民衆にあるという考えは、かなり古い時代から成立していました。
もちろん、それを民主主義と言うのはやや問題があるかと思いますが、単純に、主権が君主にだけあって人々は従属していただけと言うのも、やや乱暴かと思います。人々のオピニオンも、政治に対してはそれ相応のインパクトを持っていたのではないかと思います。
こういった人々の意見が公的な空間に反映されていく、すなわち、論じられていったのは、明の終わり頃からです。
異民族王朝の清の時代になると、ある種の知識人弾圧が始まるので、人々が自由に意見を交換することは、なかなかそのままの形で伸びていかなかったのですが、少なくとも李卓吾の時代には、ある仕方で公共空間論が可能になっていったわけです。
●繆昌期の“公論”論
二人の思想家を紹介したいと思います。
一人は繆昌期(びゅうしょうき)という思想家です。この人は、王陽明の弟子の二つの学派のうち、穏健な王学右派の流れをくむ人です。当時、東林派があり、東林党をつくって、明末の政治状況に対しある種の批判勢力として機能していました。
その繆昌期は、最終的に東林派の敵対者であった魏忠賢によって弾圧されて、獄死していくのですが、彼がこんなことを言います。
「人々の“公論”の中に是非の判断の根拠はある」
例えば、少し長いのですが、こんな記述があります。
「“公論”は、人心の自然なあり方から発するもので、そうならずにはいられないものだ。だから、天子でもそれを高官や士大夫から奪い取ることはできないし、高官や士大夫でもそれを一般民衆から奪い取ることはできない。一般民衆は天下のことに携わっているわけではない。しかし、天下に携わっていないからこそ、その態度は公平であって、見方は明晰である。真っすぐに胸の中に満ち、喉に迫り、口を突い...