●陽明学以降、「規範」という難題に直面した
皆さん、こんにちは。中島隆博でございます。前回は、朱子学から陽明学への展開を見てきました。今日は、陽明学以降の中国思想の展開を見ていきたいと思います。その際、中国思想を単に閉じて孤立した思想・哲学と考えるのではなく、世界的な思想・哲学の流れの一つとして、同時代の思想・哲学と並ぶ思想だという視点を導入したいと思います。
朱子学、陽明学が人の心、内面を発見しました。そうすると、規範がどのように成立するかが改めて問題になります。それまで規範は、例えば「礼」という形ですでにさまざまな書物に書き込まれ、社会的に浸透していました。とりわけ儒教的な規範は、経書、あるいは朱熹が「四書」という形で『論語』などを新しい経書に加えましたが、そのような聖なるテクストに源泉があると考えられていました。ところが、いま私たちは人間の内面を問う思想的局面に入った中で、人々は規範を一体どのように考えればよいかという難しい問題に直面したのです。
●四句教に対して、二通りの解釈の違いがあった
王陽明の弟子にも、規範について二通りの解釈の違いが出てきます。一つは陽明学左派と言われる陽明の考えを大胆に展開していくグループで、代表的な存在に王龍渓(王畿)がいました。もう一つは、それとは逆に、やや保守的に陽明の考え方を受け継ごうとする人々で、銭徳洪に代表される一派です。
この二派の違いは、規範をどう考えるかという問いに深く関わっています。ポイントは、陽明が弟子たちに示した自分の教えのエッセンス「四句教」の解釈です。四句教とは、「無善無悪が心の体。有善有悪が意の動。善を知り悪を知るのが良知。善を為し悪を去るのが格物」という短い教えです。
四句教を字義通りに読んでいくと、王陽明は、意の動で悪が出現し、その悪を良知と格物によって取り去っていく道筋を考えていたことが分かります。このプロセスを通じて規範が回復され、善が実現されると主張したのです。
銭徳洪に代表されるグループは、それをそのまま継承します。つまり、心の本体は無善無悪であると師は言っている。そして、意において善悪が現れてくるのだから、格物致知、誠意、正心、修身といった工夫が必要となる。実践修養しなければならない。このような穏当な主張をしていました。
●王龍渓は、「頓悟」に近い主張をし、社会的規範作成への挑戦を試みた
ところが、王龍渓はそれを大きく変更します。究極的には、陽明が区別した四つの次元、つまり、心、意、知、物は同じではないかと言ったのです。そうすると、心に善悪がないと言っている以上、実は全てに善悪はないと言わざるを得ないのではないか。修養努力する必要はないのではないか。根源的に無善無悪である心に返れば、人はそれだけで究極的な善を実現できるはずだと考えたのです。
これは、仏教における禅の二つの立場に対応しています。一つは「漸悟」。つまり、修行・実践をして、だんだん悟りに近づいていく考え方です。そうでなければ、お坊さんが修行する意味はなくなってしまいますから、漸悟は穏当な立場です。
しかし、中国の禅が面白いのは、それとは別に「頓悟」を主張した点です。「頓」は「速やかに」「すぐに」という意味ですから、頓悟とはその場ですぐに悟ること。一休さんなどで皆さんがよくご存じの「頓知」も、頓悟とほぼ同じ意味です。中国禅には、この頓悟を強調する解釈が出てきました。王龍渓の立場は、頓悟を主張する禅に近いと言えます。
王龍渓は、このような強い主張をしましたが、そうすると今度は別に難しい問題が浮上してきます。現実には、多くの悪があるわけです。では、現実の悪に一体どう向かえばよいのか。現実の悪に対して無防備になってしまうのではないかという批判がなされたのです。
それに対して、王龍渓は「そんなことはない」と言いました。良知に徹していけば、太陽が昇って魑魅魍魎が一掃されるように、あらゆる悪はひとりでに消滅するはずだと訴えたのです。ですが、これはなかなか一般の人が理解できる考え方ではありません。王龍渓は、社会的規範をどのようにつくるかという問いに対して、重要な挑戦を試みたと考えることができるでしょう。
●李卓吾が従来の道徳論、規範論を一掃した
ここで中国思想は、「規範の根拠のなさ」という問題に直面しました。この問題を明末に至って徹底的に考えた人がいます。李卓吾(李贄)です。この人はイスラム哲学者でもあり、イスラムの教えを背景に中国哲学を消化した、中国哲学史に燦然と輝くユニークな哲学者です。
李卓吾は、王龍渓の立場をさらに強めて、このようなことを言います。
「聖人は人に何も要求しない。それはつまり、人はみな聖人になることができると...