●100年前に崩壊した五つの大帝国
皆さん、こんにちは。前回に引き続き、第一次世界大戦から100年というテーマでお話しします。最初に、孔子の言葉をもう一度おさらいしておきましょう。
「我欲載之空言、不如見之於行事之深切著名也」
「抽象的な言葉に依拠しようとするよりも、具体的な出来事で説明することの方が、極めてねんごろで明快にすぎるものはない」という意味です。
本日は、崩壊した帝国と石油エネルギーというテーマで、第一次大戦後100年がたっても、中東から黒海に至る地域で国際秩序を揺るがす事件が起こっている背景について探っていきたいと思います。それは、歴史的に多民族国家として形成された帝国が崩壊した余波、そして、帝国の領土が分解しても、そのかけらをめぐる争いがまだ消えていないからです。
今、ご覧いただいているように、そこには、ホーエンツォレルン朝ドイツ帝国、ロマノフ朝ロシア帝国、そしてオスマン朝トルコ帝国、さらに、ハプスブルク朝オーストリア=ハンガリー帝国、この四つの大きな帝国をヨーロッパから中東にかけて指摘することができます。ここに、大戦勃発の直前、1911年に辛亥革命で解体した清朝の中華帝国を加えることもできます。
●米露発のイデオロギーが国際秩序を変えた
ところで、第一次世界大戦に当たって、戦争の遂行と終結に大きなインパクトを与えたものの一つに、イデオロギーの強さがありました。中でも、国際平和主義の提唱者であるアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン、そして、ボリシェヴィズムの提唱者でロシアの革命家・政治家であったウラジーミル・レーニン、この二人のイデオロギーの強烈さを指摘しなければなりません。
その中心にあったのは、植民地として支配されていた国々や住民・民族が、自らの運命を自らが定めることができるという民族自決権、そして彼らが主権独立国家・自治国家を持つことができるという原理でした。これが、それぞれニュアンス、あるいはイデオロギーが根本的に違いながらも、ウィルソンとレーニンの主張として共通していた面です。
こうした新しいダイナミズムは、近代ヨーロッパ各国の従来の秘密外交、あるいは旧外交と呼ばれた国際秩序間に、大変大きな修正と転換を余儀なくさせました。
イギリス、フランス、ドイツ、ロシアといったヨーロッパの古典的な大国は、ヨーロッパ域内における勢力均衡メカニズムによって対立関係を調整しながら、他方、オスマン帝国やエジプト、あるいは休戦条約によってイギリスの保護国となっていた湾岸の首長国諸国(現在のGCC加盟諸国となるオマーン、アラブ首長国連邦、カタールなど)といった地中海やバルカン半島の向こう側の地域においては、通商条約や植民地支配によって、自分たちの便益を確保する二重構造を獲得していました。つまり、ヨーロッパでは均衡と調節、中東においては支配と保護という形で、後者(中東)を、ある意味では国際政治の道具、犠牲としつつ、平和を維持しようとしていたのです。
ところが、19世紀の末になると、根本的な変化が生じ始めました。それは、ヨーロッパ諸国の外にあるアメリカ合衆国や日本といった国々が、ヨーロッパの大国と肩を並べながら、国際政治のゲームに参加するようになったからです。日本の関心は、とりあえず東アジアと西太平洋に限られました。他方、アメリカの関心は、西半球と太平洋海域が中心でした。
●石炭から石油へ。燃料転換と安全保障
そういう状況の中、ますます重要になったのは、エネルギーとシーレーンの問題です。なぜならば、発展を遂げる日本やアメリカも含めた先進資本主義諸国は、その発展のためのエネルギーとして石油を必要としたからです。そこで、この石油を運ぶシーレーンの安全が重要になりました。そのため、それを担保していたスエズ運河とアラビア湾、それらに挟まれた中東地域が、地政学的にますます重要な意味合いを持つようになったわけです。ここで、第一次世界大戦を機に、石油エネルギーとシーレーンの問題が大きくクローズアップされることになります。
第一次世界大戦は、産業の需要という意味での民需、陸海軍を中心に新たに現れた航空兵力である空軍も含めた軍の需要、こうした民需と軍需の両面において、石炭から石油への燃料転換を迫り、そしてエネルギー安全保障という考え方をもたらしました。
1912年に、イギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルは、軍艦の燃料を石炭から石油へ転換させることで、軍艦の速度と行動範囲を大きく改善させました。その時に述べたチャーチルの名言は、その後の世界史や日本史においても、大変予言者的な響きを持ち、いろいろな意味で重要性を予測していた発言です。原文は、今テキストとしてご覧いただいて...