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DATE/ 2024.07.10

『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』が語る舞台裏

スティーブ・ジョブズの訃報のなかで動いていた大プロジェクト

 2011年10月5日(日本時間では6日)、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏が亡くなりました。この一大ニュースは世界中を駆けめぐり、世界を変えたといっても過言ではないジョブズとのあまりにも早い別れに、当時のメディアもネットも大騒ぎでした。そんな訃報が世間を騒がせた約1カ月後、自伝が発行されたことをみなさん覚えているでしょうか。

 自伝のタイトルは『iSteve』。日本版は『スティーブ・ジョブズ』という彼本人の名前で刊行されます。そして、その翻訳を担当したのが、今回ご紹介する『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋 フリーランスが訳し、働き、食うための実務的アイデア』(講談社)の著者、井口耕二さんでした。井口さんは、ジョブズの自伝以外にも、ジェフ・ベゾス氏、イーロン・マスク氏といった、現代社会に多大な影響を与えている人々の自伝翻訳も担当されています。

 そんな井口さんは、“ジョブズの死”というあまりに大きなニュースが飛び込んで来たその日、『スティーブ・ジョブズ』翻訳の真っ最中でした。しかし、井口さんはテレビをつけることもなく、そのニュースをようやく見ることができたのは、夜7時のニュースだったといいます。普通なら、驚きとともにテレビのリモコンに手を伸ばすところ、どうしてそれをしなかったのか……。その制作の裏側が本書のなかで語られています。

ドキュメンタリーのようなベストセラー制作の舞台裏

 本書は、出版翻訳者として活躍する井口さんの「業界お仕事エッセイ」でもあります。1章ではのちにベストセラーとなる『スティーブ・ジョブズ』制作の裏側、2章では出版翻訳者として、翻訳に対する思いや必要だと考えていること、3章は井口さんの出版翻訳者になるまでの半生と、仕事や生活のスタイルが書かれています。

 特に1章の『スティーブ・ジョブズ』刊行までのエピソードは、多くの人の興味を引く内容でしょう。生前、大の取材嫌いだったジョブズが、唯一公認した自伝。しかも世界同時刊行という一大プロジェクト。さぞかし時間をかけてじっくり制作されたと思われるかもしれません。しかし、じつはプロジェクトの開始は、ジョブズが逝去するわずか5か月前、つまり2011年の5月のことでした。本書のなかで井口さんは、このスケジュール感を「短距離走のペースでマラソンを走りきろうというむちゃな話」と語っています。

 さらに驚いたことに、ジョブズが亡くなる前日、井口さんにはジョブズの命が危ういことと同時に、ただでさえハードなスケジュールが1か月前倒しになると報告を受けていたのです。今まさに自分が翻訳をしている自伝の人物が人生の幕を閉じようとしていると聞かされても、感傷にふける時間など残されていなかったのです。

出版翻訳者としての矜持

 1章はまるでドキュメンタリーを見ているような臨場感で、5月からはじまり11月に刊行されるまでの怒濤の日々が月単位で描かれています。「『スティーブ・ジョブズ』上下巻を少しでもいい形で読者の方々に届けることが、私が彼に対してできる一番の供養なのだ」と、井口さんは語っていますが、最後の1カ月はまさに“やるしかない”状態だったとか。

 そんなドラマチックな展開をはじめ、仕事を受けた際の心持ち、このハードスケジュールをどういう作戦でもってこなしたのか、スピードと質の担保への努力など、壮絶な“制作の裏側”を存分に知ることができます。

 のちに刊行された『スティーブ・ジョブズ』は発売前からベストセラーとなり、井口さんご本人にとっても、自身を代表する仕事となっていきますが、それだけの大仕事をなし得た努力や考え方が、おもに2章でより深く語られています。ここは翻訳者の“仕事論”といったところでしょうか。本書のタイトルに「実務的アイデア」とあるように、翻訳という仕事に興味を持っている方や、ゆくゆく翻訳者を目指しているという方にとっても大変参考になるでしょう。

出版翻訳者になるまでの半生と大事な「3つの言葉」

 3章は、井口さんがフリーランスの出版翻訳者となるまでの半生がつづられています。じつは井口さんは、元男性フィギュアスケートの選手でもありました。男子シングルで国体4位、全日本12位、アイスダンスで全日本4位という経歴の持ち主。周囲からはスケートを生業にするのだろうと思われていたのだとか。

 しかし、企業への就職、結婚、育児などを経てフリーランスとして独立を決意します。本書の、特に1章で語られる内容はとてもドラマチックで輝かしく見えますが、そこに至るまでには数多くの努力と苦悩がありました。本書のなかで井口さんはこう語っています。

〈「スキルアップは薄紙を重ねて塔を作るようなもの」だと私は思っています。すごく時間がかかります。翻訳にかぎらず。(中略)逆に、驚くほど速いのがスキルダウンです。「人は下りのエスカレーターに乗っている」からです。立ち止まっただけでどんどん後退してしまう。〉

 フリーランスの利点は自分の裁量で時間を作り出せることです。しかし、どんな厳しい状況になっても、自分で対応しなければいけません。井口さんご本人も、病気や事故など、命に関わるご経験を何度もされているそうです。そんななかで、どうやって現在に至ったのか。ぜひ本書でご確認ください。こちらも大変読み応えのある章になっています。

 井口さんは本書の後書きで、「為せば成る」「足るを知る」「人間万事塞翁が馬」の3つを好きな言葉としてあげています。過去に起こった苦難や苦労を肯定できるのは未来の自分のみ。そのためには、ことを成すための努力と、何事においても満足するというこころも大事ということでしょう。

 本書は一つの仕事論、家庭論、そして人生論として、非常に読み応えのある一冊となっています。『スティーブ・ジョブズ』とともに、本書を読んでみることで、また異なる味わいを得ることができるのではないでしょうか。

<参考文献>
『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋 フリーランスが訳し、働き、食うための実務的アイデア』(井口耕二著、講談社)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000390666

<参考サイト>
井口耕二氏のX(旧Twitter)
https://x.com/BuckeyeTechDoc
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一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授